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金印とは?
漢委奴国王印は、日本の福岡県で出土した純金製(当時の技術的には純金だが実際にはK23に近い品位)の王印(金印)で、小学校などの歴史の教科書にも掲載されているため、姿形を知っている人も多いかと思います。1931年12月14日に国宝保存法に基づく(旧)国宝、1954年3月20日に文化財保護法に基づく国宝に指定されています。
発見された場所
漢委奴国王印は、天明4年(1784年)に現在の福岡市東区の志賀島叶崎(かなのさき)というところで二人持ほどの石の下から発見されたといわれています。
発見した人物
発見者は百姓の甚兵衛といわれています(あるいは秀治と喜平ともいい、この2人は甚兵衛の傭人ともいう)。発見の詳細が書かれているのは、当時の那珂郡役所奉行津田源次郎に宛てて甚兵衛がさし出した「天明四年志賀島村百姓甚兵衛金印掘出・付口上書」に書かれています。
現在、金印が展示されている場所
金印の発見後、金印は筑前藩主である黒田家に代々伝わりました。わが国の古代史や対外交渉史を考える上で、きわめて重要な歴史資料であることから、昭和29年に国宝に指定されます。長い期間その歴史的価値から、東京国立博物館に寄託されていました。その後、1978年に福岡市美術館の開館にともない、黒田家から福岡市に寄贈され、現在は福岡市博物館に展示されています。
金印が偽物という噂について
じつはこの金印に偽物疑惑があることをご存じでしょうか。ここでは偽物説の主張のうち主要とされている3つをご紹介します。
出土場所や発見した農民が不明確である点
金印を発見した当時を記録した複数の古文書や発見者の口上書などは残っていますが、発見された場所が不明確とされています。また、上述した発見者の農民も住民記録に残っておらず、田畑の所有者を記帳した田畑名寄帳にも名がないことから、発見者が実在の人物ではないとする主張もあります。このことから、金印が偽物ではないかという疑問がでています。
同じ時代に作られたとされる印と比べて作りが異なる点
後漢の時代に作られた印は、文字の線が均一の太さで彫られていることが大きな特徴のひとつとして知られています。一方、志賀島で発見された金印は、中央から端に向かって線が太くなっています。この特徴は日本の江戸時代に作られたほかの印によく見られる特徴であるため、漢委奴国王印はこの時代に作られた偽物ではないかといわれています。
金印を鑑定した人物による自作自演説
当時発見された金印について、鑑定を行った人物の1人が亀井南冥です。この人物が、藩校「甘棠館」を開校するために自分の名声を少しでも上げたいと考え、金印発見を仕組んだのではないかという説があります。
本物の可能性が高い
このような噂があったため、江戸時代から現在まで多くの学者が金印の考証、研究をすすめてきました。中国古印や金印の科学的測定によって金印は本物とされており、今日ではこの金印が、光武帝より委奴国王に賜与された印であることはほぼ確定的という見方が強いです。
まとめ
今回は、日本で出土した漢委奴国王印についてご紹介しました。この金印が展示されている福岡市博物館では、精巧につくられた純金メッキ製のレプリカも販売しているそうです。日本の歴史に大きな影響をもたらした中国との関係を表す漢委奴国王印を実際に見てみるのも良いかもしれませんね。