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黄金の帝国といわれたマリ王国とはどんな国だった?

109_マリ 王国

ヨーロッパにおいて黄金の帝国という呼び名が定着していた国「マリ王国」。この国は未だ謎に包まれた部分も多く、様々な憶測が飛び交っている国です。今回はそんなマリ王国について、歴史や言い伝えについてご紹介します。

マリ王国とは

建国

マリ王国は、1230年代に建国されたと言われている中世西アフリカのサヘル地帯に栄えた王国の1つです。マリ王国の歴史についてはわかっていないことが多く、首都がどこにあったのかすら決定的な説がないほどです。王権を誰がもっていたのかはわかっていませんが、少なくともマンデ人(現代のマンディンカ族)であったと考えられています。マリ帝国は、もともとガーナ王国の支配下にあった国と言い伝えられています。13世紀の中頃、英雄スンジャタ・ケイタが現れ、台頭を始め、前身となるマリ王国を建国しました。

最盛期

マリ王国は支配域をどんどん拡充していき、14世紀には帝国と呼ばれるのにふさわしい規模となっていきました。マリ王国は、マンディンゴ人のマンサ・ムーサ王の時に全盛期を迎えたとされています。この繁栄にはムスリム商人が行った、サハラ横断貿易での黄金と塩の交易が大きく関わっていました。この国の情報はイスラーム世界の旅行家として有名な、イブン・バットゥータの著書「大旅行記」から察することができます。

滅亡

1387年にマンサ・ムーサ2世が没すると、マリでは激しい後継者争いが勃発し、各地で反乱が起きました。この反乱によって国が疲弊し、ソンガイ王国などの従属していた国々が相次いで離反しました。また、この衰退に乗じて南方のモシ族や北方のトゥアレグ族の侵攻が激化し、自国で最も豊かな地域であったニジェール川内陸デルタを失いました。

一方で、貿易の要となるブレやバンブクなどのニジェール川上流域の産金地帯、大西洋に面したガンビア川流域などは保持し続けました。しかし、その後もマリの国力は緩やかに衰退を続け、16世紀末にはガンビア川流域も失いました。その後、マリ王国は内陸国家として細々と存続しましたが、最終的に18世紀に滅亡したといわれています。

マリ王国の貿易

マリ王国の繁栄を支えた大きな柱は貿易と言われています。最盛期だったマンサ・ムーサ王の時代には、トンブクトゥやガオなどのアフリカの主要な商業都市を支配下に置いていました。この商業都市を中心に岩塩の産地であるタカザ、ブレの金鉱などで採取した塩や金を売却し、巨万の富を生み出していたのです。

マリ王国の支配層は当初からイスラームを受容しており、エジプトのマムルーク朝やモロッコのマリーン朝に外交官を派遣し、良好な関係を保っていたと言われており、ムスリム商人の行き来も頻繁だったため、物資の運搬が難しい砂漠での販路を確保していたのも貿易の大きな助けになっていたと考えられます。

マリ王国の暮らし

イブン・バットゥータの「大旅行記」には、当時のマリ王国の様子が記述されています。そこには見事な王宮と、豪華に着飾った臣下や召使がにぎやかに宴をしている様子が書かれています。著者であるイブンは世界中を渡り歩いており、マリ王国を「この国は広域を支配しているにもかかわらず全体の治安はよい」と評価しています。

これは広くイスラームの教えが広まっていたため、財産や商取引の秩序が保たれ、外国人への敬意も持ち合わせていました。そのため、多くの外国人や商人がこの地を訪れていました。

マリ王国の言い伝え

マリ王国といえば、ヨーロッパの中で「黄金の王国」の呼称があります。西アフリカの一国に過ぎなかった王国がいかにこの称号を手に入れ、この呼称が広がった経緯についてご紹介します。

黄金の王国

最も有力な説は、最盛期の王であるマンサ・ムーサにまつわる言い伝えによるものです。1324年から翌25年の間に、マンサ・ムーサ王はハッジ(メッカへの巡礼)を行いました。王は1万人を超える女性奴隷を引き連れ、200キログラムに及ぶ金を積んでサハラ砂漠を横断したと伝えられています。

金は現在の価格にすると、720億円にも及び、王は巡礼途中のエジプトなどで金を湯水のように使ったといわれています。その散財は旅の途中で金を使い果たしてしまうほどで、付近の金の価値が暴落したといわれています。

この豪華な様子がヨーロッパへ伝わり、「黄金の王国」のイメージがついたそうです。しかし、当時のイスラーム世界では金貨や銀貨が経済の軸だったので、金の消費は世界経済に非常におおきな影響を及ぼしました。

首都の謎

実は、マリ王国の首都は未だ発見されていません。首都がいくつもあり、同一王朝で遷都が行われる。王朝の交代で遷都する。このような事が繰り返され、一つの場所に固定しなかったことが原因とされています。たとえば、主要な都市としてトンブクトゥが取り上げられることが多いですが、首都であったという記述が発見されたことはありません。広大な土地を所有していた国なので、発掘が進んでいない場所に首都があったとも考えられます。もしもこれから首都が発見されるようなことがあれば、マリ王国に関する研究が一気に発展するかもしれません。

まとめ

今回はマリ王国の建国から滅亡、黄金の帝国としてヨーロッパに国の存在が広く伝わった言い伝えについてご紹介しました。首都が未だに不明であるなど、謎の多いマリ王国ですが、今後新たなる発見があったらマリ王国やマンサ・ムーサ王の巡礼の歴史が解明されるかもしれませんね。

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