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ハイブランドの歴史を紹介します

1626_ブランド物

今回は、ハイブランドの歴史を紹介します。

エルメス

馬具づくりの技術を結集したハイセンスで高機能なバッグ

ケリーバッグやバーキンなどの人気バッグで知られる『エルメス』は、1837年に馬具商としてパリで創業しました。馬具収納用バッグ「サック・オータクロア」を世に送り出したのは、1892年のことです。このバッグはバーキンの原型になったモデルといわれています。1903年には創業者の孫である三代目経営者、エミール・モーリス・エルメスが多角的事業に参入します。20世紀に入り、交通手段が馬車から自動車へと変わるにつれて、『エルメス』は時代に合った商品を打ち出していきます。1920年代には世界初となるファスナー付きのバッグを発売します。軍用車の幌に付けられていたファスナーの利便性とデザインに目を付け、バッグに応用しました。

『エルメス』のバッグは世界中のセレブたちに愛用され、数々の逸話を残してきました。愛用者のひとり、モナコ王妃のグレース・ケリーが妊娠中の姿をパパラッチに撮られないよう、バッグで腹部を隠したのは有名な話です。この出来事がきっかけで「サック・ア・クロア」は“ケリーバッグ”と呼ばれるようになりました。また、フランス女優のジェーン・バーキンのために作られたのが「バーキン」です。片付けが苦手なジェーンのために、なんでも荷物を放り込むことができるよう、大容量で内ポケットが付いているバッグを考案したといいます。

 

先鋭的なラグジュアリーブランドへと、イメージを刷新

『エルメス』は時計やスカーフ、香水なども有名です。1927年に発表された腕時計は、馬具商ならではのこだわりが革バンドに反映されたものでした。以降もスカーフや香水、ジュエリーなど、新たなアイテムを次々と発表し、最高級ブランドの地位を確立していきます。世界恐慌や第二次世界大戦時には不況の波が襲いますが、そんな低迷期を救ったアイテムが、手ごろな価格で購入できるスカーフと香水だといわれています。

スカーフは1937年に製造を開始し、香水は1947年より事業に参入します。4代目のロベール・デュマ・エルメスに経営トップの座が受け継がれると、ふたつの事業はさらに発展していきます。そして、この時期より、スカーフ製造にシルクスクリーンプリント技術を取り入れました。

次なる後継者、ジャン・ルイ・デュマ・エルメスの代になると、若い世代にも受け入れられるよう、ブランドイメージを刷新します。トップクリエイターを採用した斬新な広告戦略により、“高級だけど古臭いブランド”から“時代を牽引するラグジュアリーブランド”へと飛躍します。さらに、テーブルウェアなど比較的手ごろな価格のアイテムも展開します。2004年にはマルタン・マンジェラの後を継ぎ、ジャン=ポール・ゴルチエがデザイナーに就任し、2011年までレディースプレタポルテのデザインを担当します。

 

日本文化をモチーフにした商品も登場

日本では1964年から『エルメス』製品の販売をスタートしました。あまり注目されませんでしたが、1979年に東京・丸の内に直営店がオープンしたのを機に人気に火が点きます。『エルメス』には日本の伝統文化からインスピレーションを得たものも多く、1986年には大相撲のパリ公演開催を記念したバッグ「スマック」を発表します。ほかにも、旧一万円札が入る財布「オーサカ」や部屋着「ユカタ」など、日本をモチーフにした商品が数多く登場しています。世界と同様、日本でもラグジュアリーブランドは揺るぎない人気を誇ります。

180年の歴史を持つ『エルメス』で時代を超えて脈々と受け継がれてきたもの、それは職人魂です。バッグは制作から仕上げまでをひとりの職人が行い、商品の一つひとつに職人番号が記されています。エレガントにして機能性に優れたバッグは女性たちの憧れとなっています。そして、職人がプライドをもって、ものづくりに取り組む姿勢も、ブランドが支持される理由なのではないでしょうか。

シャネル

窮屈なコルセットから女性たちを解放

女性たちのあこがれブランドとして、ファッション界のトップに君臨しつづける『シャネル』ですが、ブランドの誕生は、1910年にココ・シャネルがパリに帽子専門店「シャネル・モード」を開いたことに始まります。

シャネルは幼い頃に母親と死別し、父親が養育を放棄したことから、姉と共に修道院に預けられて育ちました。野心家だった彼女は“いつか世の中に認められたい!贅沢な暮らしがしたい!”という強い想いを胸に、修道院で学んだ裁縫技術を活かして、洋品店でお針子として働き始めます。そして、客のひとりであった資産家御曹司と恋に堕ち、彼の援助を受けて、パリに「シャネル・モード」を開店します。

続いて、1913年に仏北西部のリゾート地・ドーヴィルに2号店、1915年には南仏のリゾート地・ビアリッツに「メゾン・ド・クチュール」をオープンします。翌年には、新作コレクションでジャージー素材を使ったドレスを発表し、大きな話題を集めます。それまでのヨーロッパファッションは、ウエストをコルセットで締め上げたドレスが主流でしたが、エレガントで華やかな見た目に反し、女性たちは窮屈さを強いられていました。

常々“どうして女性は窮屈な服装に耐えなければいけないのか”という疑問を抱いていたシャネルは、動きやすい素材を使い、紳士服の仕立て法を取り入れた、機能的なスーツやブラウスを考案します。ファッション界に一石を投じたのです。

 

香水、宝石、バッグ、そしてシャネルスーツ

1920年代に入ると、アパレル以外の商品も取り扱うようになります。1921年にはパリの本店を拡張し、『シャネル』ブランド初となる香水「№5」、「№22」を発表します。その3年後には、イギリスの大富豪であるウェストミンスター公爵との交際を機に、彼から贈られた多くの宝石類をヒントにした模造宝石を使ったジュエリーを発表します。

1930年にはチェーンに革紐を組み込んだ「シャネルバッグ」が誕生します。1932年からは本物のダイヤモンドを使ったハイ・ジュエリーラインを展開し、富裕者層から多大な支持を得ます。第二次世界大戦がはじまると、フランスがドイツ軍の占領下に置かれたため、『シャネル』も事業を縮小します。そして、終戦を迎えると、ドイツ軍高官と懇意にしていたことを理由にスパイの嫌疑をかけられ、シャネルは逮捕されてしまいます。

難を逃れスイスに亡命し、1954年に帰仏すると、閉鎖していたブティックを復活させ、ファッション界に復帰を果たします。時を同じくして、ウーマンリブ運動が盛んだったアメリカでは、シャネルが提唱する女性服が大評判になります。動きやすくシンプルなデザインが、女性解放を訴える世相と見事リンクして人気を集めます。

翌年には「シャネルスーツ」を発表します。大戦直後は“ココ・シャネルは敵国の協力者だ!”とのイメージが強く、ヨーロッパから嫌悪され、地に堕ちた『シャネル』ブランドが再び脚光を浴びるのです。

 

カール・ラガーフェルドによる新生シャネルが時代を牽引

1970年に香水「№19」を発表した翌年、シャネルは88歳の生涯を閉じます。1975年からはスキンケア・化粧品の販売を開始します。1983年には後任のデザイナーにドイツ出身のカール・ラガーフェルドが就任し、『シャネル』は次なるステップへと進みます。持ち味であるエレガントさを継承しつつ、ロックやパンキッシュを取り入れたラガーフェルドの世界観が融合したファッションは、世界中のファンを惹きつけました。

日本では1994年にシャネルブティック本店が銀座に開店し、次いで大阪にも進出します。2004年にはフラッグショップとなる銀座シャネルビルがオープンしました。ひとりの女性の果てなき野心によってスタートした小さな帽子店は、1世紀以上の時を経て、世界のトップブランドへと成長を遂げました。現在は、アパレル、化粧品、香水、宝飾品、時計と多彩なジャンルに事業を展開し、ファッションへの飽くなき改革を発信しつづけています。

グッチ

1921年に高級皮革製品店を開業、世界のトップブランドへ

『グッチ』は、1921年にイタリア・フィレンツェで開いた「グッチオ・グッチ鞄店」にはじまります。創業者のグッチオは、10代の頃からロンドンの高級ホテルで働き、高級な皮革製品やジュエリーを愛用するセレブ達を目の当たりにしていました。その経験を活かして開業した高級皮革製品店では、乗馬好きなイタリア人顧客のために馬具から発想を得たバッグや手袋、靴、ベルトなどを販売します。瞬く間に評判となり、高級ブランドとして認知されます。『グッチ』独自のアイコンである「ホースビット」もこのとき誕生しました。

しかし、第二次世界大戦が勃発すると、経済制裁によりイタリアは他国との貿易が禁止になります。それまでドイツやイギリスから輸入していた原料のレザーが不足し、経営は苦境に立たされます。その窮地を乗り切る策として生まれたのが、竹製ハンドルを用いた「バンブーバッグ」です。1950年代になると、馬鞍用の固定ベルトから発想を得た「ストライプ・ウェビング」を考案します。赤と緑から成るストライプ柄は現在も人気が高く、バッグや財布、靴、ベルトなど、さまざまなグッチ製品に用いられています。

同じ時期、「メタルビット付きモカシンシューズ」を販売し、こちらも大人気商品になります。さらに、1953年にはニューヨークにも進出し、オードリー・ヘップバーンやグレース・ケリーなどハリウッド女優たちに贔屓にされます。ちなみに、ジョン・F・ケネディ大統領夫人のジャクリーヌが当時愛用したバッグは、40年の時を経て「ジャッキーバッグ」としてリバイバルヒットを飛ばしました。

 

経営危機を乗り越え、不死鳥のように復活

グッチオの死後、経営は息子や孫たちに委ねられます。1960年代に入ると、グッチオのイニシャルからなるGGマークが製品に採用されるようになり、現在の『グッチ』モノグラムへと継承されていきます。順調に高級ブランドの地位を確立してきましたが、1980年代には創業家一族の覇権争いや、バッグの大量生産によるブランドバリューの低下などにより、『グッチ』ブランドは最大の危機に瀕します。このとき、ブランド再建の救世主となったのがドーン・メローでした。副社長兼クリエイティブディレクターを務めていた彼女は、市場にあふれた製品群をしぼり、伝統的かつ斬新なバッグを発表します。魅力あふれる商品が世界から注目を集めます。

1994年には、レディス部門のデザイナーを務めていたトム・フォードがクリエイティブディレクターに昇格、類まれなる感性で時代にフィットした商品を輩出し、世界中のファッション関連の賞を獲得します。マーケティングにおいても優れた手腕を発揮した彼は、ロゴの再開発や商品のイメージメイキングに着手します。『グッチ』ブランドは再び大きく売り上げを伸ばし、見事復活を遂げます。

 

モノグラムのDNAを受け継ぐラインが続々と登場

2001年にはフランスのファッションブランド『イヴ・サンローラン』を傘下におさめ、こちらのデザインもトム・フォードが手掛けます。彼は2004年に退任するまで偉大な功績を残しました。2005年には、バッグデザインを手掛けていたフリーダ・ジャンニーニがクリエイティブディレクターに就任します。トム・フォードが構築してきたモードなスタイリングに、遊び心あふれるフェミニンさを加味し、ブランドの世界観をさらに進化させました。ユニセフとのチャリティープログラムなど、新たな試みにも挑戦しています。

数々の苦難に瀕しながらも、質の良さにこだわったものづくりで、魅力ある商品を生み出してきた『グッチ』は、現在に至るまで、その勢いを保ち続けながら、バッグ、靴、財布などの皮革商品をはじめ、服飾、宝飾、時計、香水など幅広い商品を展開します。世界のトップブランドとして、新しい時代のファッションを発信し続けています。

ルイ・ヴィトン

腕利きのトランク職人が創業

フランスが誇る一流ブランド『ルイ・ヴィトン』は、トランク職人だったルイ・ヴィトン氏が自らの名を冠して、1854年にパリで立ち上げました。ここから華麗なるブランドストーリーが幕を開けます。ルイ氏はスイスとの国境近くの村で生まれ育ち、職人としての道を歩み始めました。しかし、母親と折り合いが悪く、家出してパリへいきます。一流職人のもとで腕を磨くうちに、めきめきと頭角を表し、33歳のときに独立します。高級ブティックが軒を連ねるカプシーヌ通りに、世界初となる旅行用トランク専門店『ルイ・ヴィトン』を構えます。

1859年にはパリ北西の街・アニエールでアトリエを開業、現在も170名の職人たちにより、レザーグッズやスペシャルオーダー品が製作されています。また、同じ敷地内にルイ氏の邸宅も建てられ、その一部はミュージアムとして公開されています。

1867年にパリで開催された万国博覧会に出展したのをきっかけに、ヴィトン社のトランクは世界にその名をとどろかせ、各国の要人に愛用されます。そして、当時からコピー商品が出回ったといわれています。コピー商品の対応策として、ルイ氏の息子、ジョルジュ氏が「ダミエ・ライン」を考案、チェス盤をモチーフにした格子柄にルイ・ヴィトンの銘を入れたデザインは、今も多くのファンたちを惹きつけてやみません。

 

二代目ジョルジュ氏の経営手腕により急成長

1892年からはハンドバッグの製造販売を開始します。同じ年、ルイ氏は70歳で没し、ヴィトン社の経営はジョルジュ氏に委ねられます。創業以来、順調に成長を続けてきたヴィトン社ですが、商才に長けたジョルジュ氏の手腕により、ハイブランドへの道を駆け上っていきます。1896年、ヴィトンの代名詞ともいえる「モノグラム・ライン」を発表します。その経緯については第3回で詳しく紹介しますが、洗練されたデザインが大人気になります。

機能性の高さにも定評があり、船旅が主流だった時代、万一の事態に備えて防水性に徹底的にこだわったトランクを開発します。豪華客船・タイタニック号の沈没事故では、海に投げ出された人がヴィトン社のトランクにつかまり、九死に一生を得たという話も伝えられています。1914年にはパリの中心地、シェンゼリゼ通りに本店を移転します。若き日の昭和天皇もお忍びで訪れたといわれています。

 

世界の人々から愛されるトップブランドに

1978年、『ルイ・ヴィトン』は日本に上陸します。東京、大阪にショップを構え、一躍注目を集めます。1980年代になると、日本初の直営ショップを銀座にオープンします。バブル景気も後押しして、その人気は不動のものとなります。その後、シャンパン、コニャックメーカーのモエ・ヘネシーと合併し、事業を拡大します。クリスチャン・ディオールやフェンディ、ブルガリなどを傘下におさめる巨大ブランド企業、LVMHグループへと成長を遂げていきました。

1998年にはニューヨーク出身のデザイナー、マーク・ジェイコブス氏がクリエイティブディレクターとして就任し、ルイ・ヴィトンブランドのアパレルやシューズを展開します。21世紀に入ってからは、腕時計の製造販売も手掛けるようになります。現代美術家、村上隆氏とのコラボレーションシリーズをはじめ、デニムやファー、メタリック素材でモノグラムをアレンジした新商品を続々と発表します。160年の伝統を守りつつ、歩みを止めることなく革新的な挑戦を続けるルイ・ヴィトンは、世界中のファンを魅了しています。

プラダ

ブランド低迷期を救ったナイロン素材・ポコノ

シンプルながら美しいデザインと、機能性に優れた使い心地で愛されている『プラダ』、その歴史は、1913年にマリオ・プラダとその兄弟によって、ミラノに皮革製品のインポートショップを開業したことに始まります。世界中から集めた高品質かつ希少価値のある皮革を使い、イタリア職人がスーツケースやパーティーバッグなどを製造します。高級感あふれる商品がブルジョワたちの間で評判になり、イタリア王室御用達ブランドにも認定されます。

高級ブランドとして名を馳せた『プラダ』でしたが、第一次世界大戦勃発を機に高級カバンの人気しますします。1958年にはマリオも亡くなり、しばし低迷期をさまよいます。しかし、1978年にマリオの孫娘であるミウッチャ・プラダがオーナー兼デザイナーに就任するとプラダは変化します。それまでは皮革中心だった『プラダ』製品に、防水性の高いナイロン素材「ポコノ」を採用、軽くて丈夫で見た目にも美しく、しかもリーズナブルに手に入るバッグは現代女性から大きな支持を集め、人気商品となります。

ちなみにこのポコノ、もともとマリオがアメリカから輸入し、旅行カバンに用いていた素材だそうです。ポコノは工業用に開発された特殊ナイロンで、テントやパラシュートなどのミリタリー用品に使われています。プラダといえば、この素材を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。こうしてカジュアルな路線に注力し、ポコノを使ったバッグやリュックサックを次々と発表します。

 

セカンドラインやスポーツライン設立など、事業を拡大

1980年代に入ると、『プラダ』の名を刻んだ三角プレートが有名になります。その後も好調の波に乗り、1985年にはシューズ、1988年にはレディースウェアと、事業分野を拡大していきます。1993年、ミウッチャ・プラダの子ども時代の愛称を冠した、セカンドラインのファッションブランド『ミュウミュウ』を創設します。ほどよいモード感、少女のような可憐さが若い世代にも注目されます。1998年には、スポーツウェアやスニーカーなどのアイテムを取りそろえた『プラダスポーツ』を展開します。シンプルでスタイリッシュなデザインが支持され人気を博します。

その後、『フェンディ』『ジルサンダー』など、他ブランドを吸収合併してグループ拡大を目指しますが、2000年代に入ると多角化路線を縮小します。『プラダ』『ミュウミュウ』を二本柱とする経営方針へと転換を図ります。この決断が功を奏し、『プラダ』がコレクションで発表したデザインは高く評価され、多くのブランドに影響を与えました。

 

日常を贅沢に飾る、デザイン性に優れ、使い勝手の良いバッグたち

2010年に登場したキャンバストート「カナパ」は、カジュアルな雰囲気が魅力です。「サフィアーノ」は、上質なカーフスキンに細かい格子模様を施し、端正なフォルムがエレガントです。「ボンバー」は三角マークのメタルプレートが目印です。特殊ナイロン素材のポコノを使い、立体感のあるかわいらしいフォルムが人気です。

2015-16の秋冬コレクションでは「インサイドバッグ」を発表します。バッグの中にもうひとつのバッグを組み込んだような、独創的なデザインが世界から注目を集めました。ミウッチャ・プラダが“日常を贅沢に飾る”をコンセプトに掲げているように、機能性に優れたアイテムが続々と登場しています。今後、『プラダ』がどのような革新的なデザイン生み出していくのか、期待が高まります。

フェンディ

クラシックな毛皮を機能的なアイテムへと昇華

『FENDI(フェンディ)』は1925年に創業します。フェンディ夫妻が、ローマに毛皮工房をオープンしたのがはじまりです。当時、ハリウッドで流行していた毛皮の襟巻に着目し、毛皮のコートを販売したところ、イタリア人女性に大人気になります。1946年にはフェンディ夫妻の長女、パオラがわずか15歳で経営に参画します。4人の妹たちも仕事を手伝い、店は大繁盛します。

1965年には、『クロエ』のヘッドデザイナーを務めていたカール・ラガーフェルドを主任デザイナーに迎え、当時、最新技術だったエナメル加工やステッチ使いを製品づくりに取り入れます。ラガーフェルドによって、毛皮のもつクラシックなイメージは刷新され、『フェンディ』の毛皮はクリエイティブで機能性に優れたアイテムへと昇華していくのです。

1969年、毛皮コートのプレタポルテを発表します。ラガーフェルドは、1940年代よりコートやバッグの裏地に使われていた「ダブルF」柄に脚光を当て、新製品のデザインとして積極的に採用していくことを提案します。これにより、かの有名なズッカ柄が誕生しました。1970年代に入ると、毛皮や革製品に加えてコートやジャケットなども登場し、フルラインの本格的なプレタポルテがスタートします。ラガーフェルド初のコレクションが、あまりにも素晴らしかったため、ニューヨークの百貨店ヘンリ・ベンデルが全商品を買い占めたというエピソードも残されています。

 

コンサバティブから先鋭デザインまで、幅広いバッグのラインナップ

1980年には、「ダブルF」に幅広のストライプ柄の「ペカン」が加わります。1987年からはフェンディ夫妻の孫たちが経営に本格参入します。そのひとりであり、スタイルオフィスディレクターを務めるシルヴィア・ベントゥリーニ・フェンディが1997年にバッグ「バゲット」を発表します。フランスパンを小脇に抱えるように気軽に持てる「バゲット」は、クロコダイルやファーを使用したもの、スパンコールやビーズ刺繍を施したものなど、さまざまなバリエーションが生まれ、その数なんと100種類以上にも及ぶそうです。新作が出るたびに、世界中のコレクターから熱く注目されています。

1999年には抜群の収納量を誇る「ロールバッグ」、2001年はダブルF柄を用いた、ひとまわり小さなサイズの「ズッキーノ」、2006年は「ビーミックス」が登場します。2003年春夏コレクションで発表されたのは、古代ローマ戦車にインスピレーションを受けた新作バッグ「ビガ」、SFを想起させるシルバーメタリックのバッグは、かつての『フェンディ』になかったデザインとして注目されました。

また、“いないいないばあ”という遊び心あふれるネーミングの「ピーカブー」は、新時代のアイコンバッグとして人気を集めています。機能性に優れたコンサバティブなタイプから、これまでになかったデザインのものまで、多種多様なバッグを精力的に発表しています。

 

飽くなき冒険心で、新たな商品を世に送り出す

1999年、『フェンディ』はフランスLVMHとイタリア・プラダの合弁会社に買収され、2001年からはLVMHの傘下に入ります。現在は毛皮やバッグ、靴などのレザー製品をはじめ、服飾やサングラス、宝飾品、時計など、幅広い商品を展開しています。2000年代後半からは男性向け商品にも注力します。メンズのデザインは前出のシルヴィア・ベントゥリーニ・フェンディが、レディースはラガーフェルドが担当しています。伝統の技を大切にしつつ、常に冒険心を忘れることなく、新たな製品づくりに取り組んできた『フェンディ』の動向から目が離せません。

ディオール

現代モードの祖・ディオールが生み出した革新デザイン

『ディオール』は1946年に創業します。ファッションデザイナーのクリスチャン・ディオールがパリにクチュールメゾンを開き、翌年にはファッションショーを開催し、ふたつのライン「コロール(花冠)」と「ユイット(8)」を発表します。「コロール」は肩になだらかな丸みをもたせ、ウエストを細く絞って、ロングスカートを組み合わせたスタイルです。新しい時代を象徴するフェミニンなデザインが一躍脚光を浴びました。さらに、ニューヨークの女性ファッション誌・ハーパーズ・バザーの編集長、カーメル・スノウが「コロール」を“ニュールック”と呼んだことから、世界にその名が広まります。

その後も「パーティカルライン」「オーバル」「チューリップ」「Aライン」などなど、モード界に大きな影響を与えるデザインを精力的に発表します。彼によって生み出されたファッションは時代を超えて愛され、今なお輝きを放っています。

『ディオール』はフレグランスやコスメティック部門にも力を注ぎ、1948年には香水部門を立ち上げます。1953年にはリップスティックを発売し、1956年にはかの有名なフレグランス「ディオリッシモ」が誕生します。創設以来、わずか10年の間にブランドは急成長を遂げてきましたが、ディオールは長年の不摂生が原因で、1957年に53歳という若さでこの世を去ります。

しかし、その後も『ディオール』ブランドは、化粧パウダーやネイルエナメル、男性向けフレグランス「オーソバージュ」など、魅力あふれるアイテムを次々に発表します。新ブランド『ベビーディオール』の創設や、リストウォッチ事業への参入など、意欲的に事業を拡大していきます。

 

サンローラン、フェレ、ガリアーノ…ディオール亡き後を支えた才能たち

ディオール亡き後、その遺志を継いだのは、彼の一番弟子だったファッションデザイナーのイヴ・サンローランでした。しかし、アルジェリア戦争勃発により、サンローランは徴兵されることになります。新たにデザイナーとして起用されたマルク・ボアンは、「スリムルック」「サファリルック」「マキシルック」と革新的なデザインを生み出していきます。

快進撃を続けてきた『ディオール』ですが、その後しばらくは低迷の時期を迎えます。しかし、1989年にイタリア生まれのジャンフランコ・フェレがクリエイティブディレクターに就任すると、再び勢いを取り戻します。1996年からはイギリス人デザイナーのジョン・ガリアーノがディレクターに就任します。そうそうたるメンバーによって、ブランドは支えられてきたのです。21世紀を迎えると、男性向けラインの「ディオールオム」を創設します。タイトなシルエットのスーツやスキニージーンズなどを発表し、ファッション業界に大きな影響を与えます。

 

コスメやバッグなど、魅力あふれるヒット商品を輩出

『ディオール』は、他にも数多くのヒット商品を生み出してきました。1986年、スキンケア製品「カプチュール」を発売します。1995年にはスリミングコスメのボディマッサージジェル「スヴェルト」が大ヒットします。日本で発売されるやいなや、百貨店前に商品を求める人たちが列を成し、社会現象になるほどの人気ぶりでした。バッグも、エレガントで機能性に優れていると評判です。なかでも故・ダイアナ妃が愛用したレザーバッグ「レディディオール」が有名ですね。

生前、クリスチャン・ディオールは自らを“幸せの商人”と称したそうです。ブランド設立からわずか10年で他界した彼ですが、その志はファッション業界のトップアスリートたちに脈々と受け継がれ、進化を遂げながら、今もなお多くの人たちに幸せを与え続けています。

ロエベ

職人技を駆使して、ラグジュアリーな皮革製品を世に送り出す

『ロエベ)』の歴史は古く、その発祥は1846年、スペインの職人たちがマドリッドに皮革工房を創設したことにさかのぼります。工房を訪れたドイツの皮革職人エンリケ・ロエベ・ロスバーグは、その技術の高さとデザインセンスに魅了され、1872年に自らの名を冠した「ラグジュアリーレザーハウス ロエベ」を設立します。王侯貴族や富豪向けに製造されたレザーバッグは、デザイン、品質に優れ、高い耐久性も備えていると評判になります。『ロエベ』はトップブランドの地位を確立し、1905年には王室御用達の称号も与えられます。

1965年からは女性向けのプレタポルテ事業にも参入します。カール・ラガーフェルドやラウラ・ピアジョッティらが初期のデザイナーを務めました。その後、東京、香港、ロンドンなど海外進出も果たし、ビジネスを拡大していきます。1970年にはブランドを象徴する「アナグラム」が誕生します。スペインの画家、ヴィンセント・ヴェラによる、4つのLを組み合わせたデザインは、『ロエベ』の最上級皮革製品にクオリティマークとして刻印されています。また、同じ頃には香水の生産も開始しました。

 

170年の伝統が息づく正統派のバッグ

『ロエベ』がつくる革製品の特長は、上質な素材感と主張しすぎない高級感でしょう。女性用バッグを中心に商品展開しており、気品あるデザインと機能性の高さが魅力です。金具やステッチ、トリミングなど美しいディティールが流行に左右されることなく、独自のポリシーを貫く姿勢も、多くのファンたちに支持されています。1975年、アイコンバッグといわれる「アマソナ」を発表しました。ハンドバッグの王道を行く、正統派デザインが秀逸、端正で洗練されたフォルムに職人技が光ります。

新ラインの「ゴーヤ」はソフトタッチのカーフレザーを使ったシリーズでブリーフケースなどビジネス向けのアイテムも揃います。2015年の春夏コレクションで発表された「パズル」は、その名の通り、パズルを連想させるデザインが印象的です。60以上のパーツを幾何学的に組み合わせて作られており、立体的なバッグをフラットに折りたたむことができます。『ロエベ』ならではのクラフトマンシップに世界中が感嘆しました。「ジョイス」はラウンド型のボディにビックメタルのロゴをプラスした遊び心あふれるデザインとなります。革紐を組み込んだチェーンが華やかさを添えています。

 

新たな感性を取り込み、ラグジュアリーブランドとして飛躍

ブランドの成長とともにメンズラインにも力を入れ、1980年代には男性向けプレタポルテにも参入します。「ニューエンプレッサ」は財布や名刺入れ、キーケースなどを展開しており、ビジネスエグゼクティブを中心とした人たちに愛用されています。

1985年からはラグジュアリーブランドグループのモエ ヘネシー・ルイ ヴィトンの一員となり、皮革製品とプレタポルタの2つの分野を中心に事業を展開します。2013年にはクリエイティブディレクターに北アイルランド出身のジョナサン・アンダーソンを迎え、伝統のクラフトマンシップに先鋭的な感性をプラス、どちらかというと富裕者層向けというイメージが強かった『ロエベ』を、さらに幅広い客層に愛されるブランドへと発展させました。
そして現在、170年にわたり継承されてきた“クラフトとイノベーション”を軸として、世界を牽引するトップブランドとしてさらなる飛躍を目指しています。

 

このように歴史や生い立ちを知ることでハイブランドがハイブランドである所以が感じれますね。

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