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買取大吉 浮世絵や洋画で表現されてきた美人画

浮世絵や洋画で表現されてきた美人画

1487_美人画 洋画

美人画とはデジタル大辞泉によると「女性の美しさを鑑賞の対象として描いた絵画。日本では、特に江戸初期の風俗画に始まり、以後浮世絵の主流となって発展した」とあります。美人画は“Bijinga / Bijin-ga”として浮世絵の主要な画題の一つとして世界でも認識されています。

美人画の発展

美人画は江戸時代の浮世絵が世界的に有名ですが、これは桃山時代の風俗画にもルーツを見出すことができます。桃山時代は簡単に言えば、室町幕府の終焉から江戸幕府の始まりまで、16世紀後半~17世紀初頭にあたる時期です。この頃は後世の極楽よりも、現生の享楽を人々が求めた風潮があり、美術においても現世を描く風俗画が発達したのです。桃山時代は絵画表現においても進歩をみせた時代で、狩野派に代表される屛風絵が発達しました。屛風絵は空間芸術として、また武家や貴族の権力誇示として、城や屋敷を彩りました。

また、桃山時代はエンターテインメントが開花した時代でもあります。世阿弥(ぜあみ)観阿弥(かんあみ)が大成した後、秀吉に愛された「能」や出雲阿国(いずものおくに)の歌舞伎踊りが「歌舞伎」の嚆矢となったのもこの頃でした。そうした町の賑わいも、画家たちが当世を描くインスピレーションとなったのは想像に難くありません。こうした多様な文化性は江戸時代に受け継がれて、江戸の浮世でますます花開いていきます。

江戸の美人画

江戸時代の芸術活動において興味深いのは、芸術が特権階級ではなく、商人や職人などの「町人」によって醸成されたという点です。この町人文化として浮世絵は非常に人気の高いアートのひとつでした。浮世(うきよ)とは、「憂き世」に由来することばですが、江戸の“世”を“浮”かれ楽しむという意味合いが込められるようになったといいます。今でいう“ボヘミアン”な発想ですね。浮世絵の主な表現方法として「肉筆画」と「錦絵」があります。簡単に言えば肉筆画とは「筆で描いた絵」、錦絵とは「多色刷りの木版画」です。浮世絵の創世記を代表する絵師が菱川師宣(ひしかわもろのぶ)です。彼は浮世絵の様式を確立したとも言われており、数々の名作を残しています。「見返り美人」と聞けば知っている人も多いのではないでしょうか。浮世絵は歌舞伎の有名役者からお店の看板娘を題材にしたもの、富士山など風景を描いたものなど様々な題材で描かれ、芸術作品としてだけでなく広告媒体としても活躍しました。錦絵は版画なので量産することができるため、多くの人に情報を届けるにはうってつけだったのです。美人画においては鈴木春信(すずきはるのぶ)も有名です。春信は様々な女性を描いており、「江戸のファッション誌」とでも言おうかというほどに、ポージングや服装、構図においても多種多様な表現を展開し、ときにかわいく、ときに美しく、ときには妖艶に当世の美女達を描いてきました。錦絵の発展にも大きく貢献した絵師です。喜多川歌麿(きたがわうたまろ)も美人画においては外せません。「ビードロを吹く娘」はみれば“あー!”と思い出す人も多いでしょう。

近代、洋画における美人画

美人画というと江戸時代の浮世絵が有名ですが、明治時代になると洋画において女性が描かれます。明治の時代は文明開化の時代であり、産業革命がもたらした西洋の先進技術を取り入れようと日本が躍起していました。当時美術においては、フランス・パリが最先端の地でした。多くの日本人芸術家がパリを志し、西洋絵画の画法を学びました。日本の洋画界の発展に大きく貢献したのが黒田清輝(くろだせいき)です。彼は鹿児島(薩摩)に生まれました。幼くして東京に住む父の兄のもとに養子入りし、上京します。養父の黒田清綱は幕末に活躍し、明治時代にも高い役職に就いた人物でした。黒田清輝は当初、日本が模範にしていたフランスの法を学ぶため、フランス行きを志しました。

しかし趣味で描いていたスケッチが、現地の日本人画家や画商に見いだされ、画家になることを勧められると、本人も法を学ぶことより画家になりたいという願望に突き動かされていきます。そうして1887年より彼は絵画に専念するようになり、フランス人画家ラファエル・コランに師事します。ラファエル・コランは当時フランス絵画界の権威「アカデミー・デ・ボザール」の会員でその後身、パリ国立高等美術学校(エコール・デ・ボザール)のアトリエ長を務めた人物でした。彼のもとで黒田は裸婦のデッサンや油画表現、歴史画の構図研究など洋画の基礎を学びます。歴史画を参照するスタイルは当時「アカデミスム」と呼ばれる権威的なスタイルですが、黒田がコランに師事した時代は印象派やフォーヴィスムなどの新たな潮流が生まれていて、師匠であるコランの作風にも、伝統的な写実表現を汲みつつも、自然界の美しさや鮮烈さを表現に取り入れたものがみられました。こういったアカデミスムの写実主義と印象派的な明るい色彩を併せ持った画風は「外光派」と言われたりもします。

黒田の作品はサロンに入選するなど、フランスでも認められるようになります。そうしてフランスで培った経験を日本の洋画界で発揮するようになります。黒田が帰国前にフランスで製作し公募展に入選した「朝妝(ちょうしょう)」はフランスから帰国後、国内でも展示されました。「朝妝」は裸の遊女が身支度をする様子を描いたもので、この絵が京都で展示されると、写実的な裸婦画が公の空間に晒されることに対して物議を醸しました。これには洋画における裸婦画の芸術性を日本画壇も理解するべきであるという、黒田の挑戦的な意思がありました。裸婦はデッサンの基礎においても画題とされるほど、洋画の根幹をなしている一方で、その赤裸々な表現はあらゆる国や時代において倫理的に問題視されてきました。黒田はその後も「智・感・情」という裸婦画三部作を発表するなど、このテーマに対する偏見が解消されるよう腐心しました。また日本洋画界の技術的発展にも大きく貢献し、フランス芸術アカデミー式の石膏やヌードモデルを描く実践的な学習法や、当時の最新の画材などを日本に紹介しました。東京藝術大学の前身、「東京美術学校」の西洋画の教授としても後身の教育に力を注ぎました。

現代の美人画

このように歴史の中で様々に発展してきた日本の美人画ですが、現代にもその影響は見て取れます。浮世絵の美人画のエッセンスを現代の感覚で表現するアーティストが鶴田一郎(つるたいちろう)です。彼の作品において女性は、切れ長な目、黒い髪をもち、細い線や柔らかい曲線で表現されます。彼は本女性のもつ美しさを、アールデコ的な無駄のない的確なフォルムによって描き上げています。鶴田一郎の作品は化粧品などの広告としても活用され、90年代のコマーシャルアートにおいても大きな存在感を放ちました。その日本人の美しさを端的に表現している作品たちは国内にとどまらず、世界においても評価されています。

最後に

このように美人画は、日本独特のジャンルとして世界的に認められています。桃山時代の風俗画が江戸に浮世絵としておおきく発展し、明治以降は洋画における西洋の芸術感性も受容され、さらなる多様性をみせてきました。美人画は海外でも評価が高く、国外からの旅行者にも人気があります。そのため、ものによっては高額で取引されるものもありますので、もしお家に家伝の美人が眠っていたら、起こしてあげるチャンスかもしれません。

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