「ジャン=バティスト・タヴェルニエ」とダイヤモンドの歴史
タヴェルニエの父親は地理学者であり、兄弟は地図製作者でした。一家は世界を冒険する素質を兼ね備えていたのです。ダヴェルニエは16歳で旅を始めます。かれは手始めにヨーロッパの多くの国を訪れました。旅行中に多くの言語を学び22歳のとき既にドイツ語、ハンガリー語、オランダ語を含む8つの言語を流暢に喋る事が出来たそうです。ジャン=バティスト・タヴェルニエはフランス人ですが、インドをはじめアジア諸国を渡り歩いては宝石などを買い集めていました。
世界のダイヤモンド産地の中でもインドはもっとも古く、ブラジルでダイヤモンドが発見されるまでは世界唯一の産地とされています。そのインドのダイヤモンド鉱山を初めて訪れたヨーロッパ人が、ジャン=バティスト・タヴェルニエなのです。彼は宝石商であると同時に冒険家でもあり、インドなど東方方面の6回の訪問を旅行記として残しました。
そこにはインドのダイヤモンド鉱山のことや、漂砂鉱床という砂と岩の土地からダイヤモンドが採れることなど、ダイヤモンドの科学的な記録も残しています。タヴェルニエの見識によって地上で最も貴重な宝石ダイヤモンドは歴史の表舞台に出ることになるのです。鉱山での採掘方法から研磨の方法までダヴェルニエの著書によってもたらされた情報は余りにも大きなものでした。中でも需要な任務として実行していたのがフランス王ルイ14世の依頼でインドの王族からダイヤモンドと宝石も購入すると言うものでした。当時インドは世界で唯一のダイヤモンドの産地だったのです。
神の像にはめ込められたダイヤモンドにまつわる不幸
ジャン=バティスト・タヴェルニエの叔父はルイ13世の地図係だったと言いますから、そこから王室の情報を得たのでしょうか。2回目の旅行中に将来のルイ14世の誕生を知ったそうです。やがて彼は1642年に112.25カラットの巨大なブルーのダイヤモンドをインドで購入し、ルイ14世に売り渡します。
この石は一説には、インドのラーマ・シータという神の像にはめ込んでいたダイヤモンドを引き剥がして持ち帰ったという話があります。神罰なのか、そこからこの石にまつわる不幸が始まります。まず、ジャン=バティスト・タヴェルニエは事業に失敗し、インドで犬に食い殺されてしまったとかいう逸話もあります。ですが、タヴェルニエは84歳で老衰のため亡くなったと言われていて、呪いが降りかかったのかはわかりません。このダイヤモンドを手に入れたルイ14世は、この石を身につけることなく天然痘で死去してしまいます。愛妾のバリー夫人は処刑され、ルイ16世は妻のマリー・アントワネットにこの石を預けますが、ほどなく夫婦ともに処刑。
その後、フランス革命などで歴史の渦の中に消えますが、かなり小さくなって1830年にロンドン市場に現れました。これを購入したのが、銀行家のヘンリー・フィリップ・ホープです。彼の名を取って「ホープ・ダイヤモンド」と呼ばれるこの石は、さらに不幸を招きます。ホープの破産、オスマントルコの皇帝アブデュル・ハミト二世が愛人に贈るも、彼女は殺害され、その後、石を買い取ったアメリカ人のエドワード・マクリーンは1912年にタイタニック号の沈没で死亡、さらに彼の子孫にも次々と不幸が襲います。
ホープ・ダイヤモンドは宝石商のハリー・ウィンストンが購入後、ワシントンのスミソニアン博物館に寄贈し、ようやく安住の地を得たということです。もともとルイ14世購入時、ホープダイヤは112.50カラットあったという記録が残っています。
まとめ
インドで発見されたブルーダイヤモンドは、ジャン=バティスト・タヴェルニエからルイ14世へと渡り、やがてマリー・アントワネットや王家全体に大きな悲劇をもたらしました。フランス革命中の盗難の後もさまざまな悲劇を象徴する存在となり、現代でも多くの逸話とともに輝き続けています。ブルーダイヤモンドに代表されるように、発色がはっきりとしたカラーダイヤモンドは希少な存在です。手元にカラーダイヤモンドを持っている場合、品質によっては高額査定がつく可能性があります。もしもカラーダイヤをお持ちの方は興味本位で査定に出すと思いもよらない金額になるかもしれませんね。