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ダイヤモンド業界の首領、デビアス社とは

1063_ダイヤモンド デビアス

デビアス社とは A diamond is forever.(ダイヤモンドは永遠の輝き。)のキャッチフレーズを世に出した。ダイヤモンドを語るには外せない存在です。今回はそんなデビアス社についてご紹介していきます。

デビアス社

会社の名前は、アフリカーナー人農民ヨハネス・ニコラスとディーデリック・アーノルダスのデ=ビア兄弟(JohannesNicholasdeBeer,DiederikArnoldusdeBeer)の、現在の南アフリカ共和国にあった農場名に由来している。オレンジ川とバール川が合流する、ヴールイトツィヒト(Vooruitzicht)と呼ばれる地点の付近でダイヤモンドが発見された。しかし兄弟は続いて起こるダイヤモンドのラッシュに農場を維持することができずに、6300フランで農地を売ることになった。兄弟は鉱山の所有者にはなれなかったが、これらの鉱山のうちの一つは、二人に由来して命名されています。

歴史

1876年、英領ケープ植民地(現在の南アフリカ共和国)のキンバリーでは98の小シンジケートが3600ものダイヤモンド採掘地を持っていた。1880年、セシル・ローズとチャールズ・ラッド(CharlesRudd)がデビアス鉱山会社を設立した。1888年3月13日、デビアス鉱山会社はロスチャイルド家およびアルフレッド・ベイト(AlfredBeit)の援助を受けてバーニー・バルナート(BarneyBarnato)のキンバリー・セントラル鉱山会社と合併した。新デビアス(DeBeersConsolidatedMinesLimited)はダイヤモンド生産の世界シェアを9割ほど握った。1889-90年、デビアスは10社で構成されたロンドン・ダイヤモンド・シンジケートと販売契約を結び、相手方へ原石を供給した。第二次ボーア戦争終結後、プレミア(Premier)鉱山がロンドン・ダイヤモンド・シンジケートに登録されました。

この1902年には、デビアス・サッカークラブが、デビアスが南アフリカのケープタウン岸と西ケープ州の近くにダイナマイト工場を建設した際に設立された。その工場はローレンス川河口の真西、フォールス湾岸に置かれた。プレミアは1905年にカリナンを採掘し、翌年シンジケートを脱退した。プレミアは原石を増産してアーネスト・オッペンハイマーに売った。デビアスは1907年恐慌のさなかドイツ領南西アフリカとの競争にもさらされた。短い間、デビアスとロンドン・シンジケートはドイツ領から買い付けることに合意したが、ロンドン・シンジケートは優先してベルギーのアントウェルペン・シンジケートへ売却し、市場を開拓するようになった。1912年、沖積層のダイヤモンド鉱床がベルギー領コンゴ(後のザイール、現在のコンゴ民主共和国など)で発見され、翌年から生産しデビアスと競争しました。

その2年後に第一次世界大戦が勃発し、デビアスは生産を中断したが、翌年に南アフリカ連邦がドイツ軍を破り、最大のライバルが退場したかに見えた。1917年アングロ・アメリカンが南アフリカで創業。これに対抗して、デビアスはプレミア鉱山を傘下に収めてロンドン・ダイヤモンド・シンジケートを引き継いだ。1918年にノーベル工業とカイノック(Kynoch)は互いのアフリカ子会社を合併させました。

この新子会社は、1924年にデビアスと合併して爆薬部門となった。1919年、アングロ・アメリカンは旧ドイツ領会社(GermanDiamondRegie,laterConsolidatedDiamondMinesofSouthWestAfricaLtd.orCDM)を買収しデビアスを圧迫した。戦間期からデビアスはソ連との競争にさらされた。そしてオッペンハイマー家がデビアスの支配的株主となった。まず、プレミアの上客アーネスト・オッペンハイマーが1925年にロンドン・ダイヤモンド・シンジケートを再編してしまい、翌1926年デビアスの重役に就任しました。

そこから翌1927年にかけてリヒテンバーグ(Lichtenburg,NorthWest)にダイヤモンド・ラッシュが起こり、暗黒の木曜日までにアーネストは現地の利権を握った。そして1929年12月にデビアス会長となった。1930年、世界恐慌への対応として新たな合弁会社を設立した(DiamondCorporationLtd.)。その半分はデビアスとプレミアとCDMおよびその他大手生産者が出資した。残りは1925年に再編したシンジケートの持分となった。ここでアングロ・アメリカンがCDMの支配権をデビアスに明け渡し、アーネストは合弁会社の会長となりました。

そしてベルギー人やポルトガル人と堅実に協定した。1932年、キンバリーとプレミアを含む全所有鉱山が閉鎖した。戦略は生産カルテルから販売カルテルへ性質を変えていった。1934年、合弁会社の子会社(DiamondTradingCompany)が設立されたのである。DTCは(参加者から原石を買占めた上で)世界中の加工センターから慎重に相手を選び、原石の品質を分類してカテゴリーごとに量を決めて原石を販売したが、その流通機構全体は中央販売機構(CentralSellingOrganization)として世に知られた。

 

ダイヤモンド外交

第二次世界大戦では工業用ダイヤモンドがもてはやされ、1942年の売上げは430万スターリング・ポンドに達し、会社売上げの4割近くを占めた。1943年と1945年のダイヤモンド市場は2050万と245万ポンドに拡大した。そこで1944年と1945年、キンバリーとプレミアがそれぞれ生産を再開しました。このような経済活動はアメリカ合衆国政府が追及するところとなりました。そこでアーネストはカナダにおける供給量を増やすという和解案を示した。実際にそこでの価格は英国政府に統制されました。

しかしアメリカでは妥協しませんでした。1945年と1947年に米司法省はデビアスを反トラスト法違背容疑で告訴しました。1946年にベルギー領コンゴが中央販売機構に参加しました。磐石に見えるカルテルは、1950年代にソ連もダイヤモンドを生産するようになって脅かされました。デビアスは1930年代に積み上げられた在庫の山を1952年に売り切りました。アパルトヘイト時代にデビアスは囚人を労働力に使う許可が与えられました。囚人の大多数は、1952年に制定された厳密なアパルトヘイト法のために投獄されたといわれています。1953年、アセアは工業ダイヤモンドの合成に成功したが、特許をとりませんでした。

そこで1955年にゼネラル・エレクトリックが取得しました。1950年代、中央販売機構はイスラエルに対する原石の供給を削減していった。1959年、ソ連が中央販売機構に参加したが、1963年に脱退した。一方、アフリカの年を経てイスラエルは原石の輸入額を増やし、中央販売機構はイスラエルに歩み寄ったが、しかしベルギーに対する4割弱の割当量を減らすことはしませんでした。1967年にデビアスはオラパ鉱山を発見し、1969年にボツワナ政府と合弁会社「デブスワナ」を立ち上げた。1974年に米司法省が再びデビアスを反トラスト法で告訴し、デビアスは翌1975年4万ドルの罰金を払いました。

 

ソ連の道連れに

1980年代初頭、ザイールの指導者モブツ・セセ・セコが中央販売機構を拒絶したが、デビアスはザイール政府に買収される前に高値をつけて原石を買い占め、政権の競争力を殺いでカルテルに復帰させた。オーストラリアのキンバリー地域では1983年にコンジンク(ConzincRiotintoofAustralia)の参加するジョイント・ベンチャー(AshtonJointVenture)が中央販売機構に参加した。このジョイント・ベンチャーにアーガイル鉱山(Argylediamondmine)が含まれていた。カルテルでアーガイルは生産量の1/4を独自に販売できるが、品質の良いものは全部を中央販売機構に売却しなければならなかった。

自社加工する時ですら一度カルテルを通さなくてはならなかったし、広告まで制限された。1984年アフリカの24カ国が飢饉に陥り、翌年スーダンとウガンダとナイジェリアでクーデタが起こりました。1988年、ソ連で金属・宝石産業の国家独占企業が誕生し(Glavalmazzoloto)、ソ連崩壊まで中央販売機構に原石を供給した。それが独立国家共同体となって、軍需物資として利用されてきた品質の悪いダイヤをだぶつかせて世界的な供給圧力となりました。

そこで中央販売機構はソビエト連邦の崩壊後に結成された独立国家共同体(CIS)からの買い付けに差別価格を導入して、供給過剰な低品質の原石は価格を下げ、反対に高品質の価格を上げました。1994年、工業用ダイヤモンドの価格カルテルをゼネラル・エレクトリックと結んだ。ゼネラル・エレクトリックはリークしました。その同年から翌1995年にかけてロシアと中央販売機構は、各自で莫大な量の安い原石をインド市場に売りさばき、1996年6月、アーガイル鉱山が中央販売機構を脱退しました。この手続はデビアスが直接行い、親会社のアングロ・アメリカンは立ち会わなかった。1997年2月に中央販売機構と、ソ連のダイヤモンド鉱山を多くを引き継いだロシア連邦で若干の調整が行われました。

1998年初め、中央販売機構はトロントに事務所を開設しました。カナダ政府はダイヤモンドに対して原石ではなく生産に対して課税するようになり、中央販売機構の買い取りを助けました。2000年7月14日、デビアスは公式にカルテルの終結を宣言し、中央販売機構は単なるDTCとして販売を継続するとし、2001年、アングロ・アメリカンがデビアスとの株式の持ち合いを解消、支配率を32%から45%に引き上げました。2003年、プレミア鉱山はカリナン鉱山と名前を変えた。2004年にデビアスはゼネラル・エレクトリックとのカルテルを理由に米司法省から1千万ドルの罰金を課された。2006年2月、デビアスは欧州委員会と合意し法的に拘束され、2008年末から将来にわたりアルゾア(Alrosa)からの低品質原石を仕入れることができなくなった。2008年7月、カリナン鉱山をペトラ(PetraDiamonds)に売却しました。

日本進出

「デビアス(DEBEERS)」は、日本における店舗戦略を見直し、日本市場から一時撤退しました。ロンドンに本社を構えるデビアスダイヤモンドジュエラーズ(DEBEERSDIAMONDJEWELLERS)社は「賃貸契約が終了するに伴い、日本における店舗戦略を見直すタイミングだと考え閉店することにした。日本における、よりふさわしいブランドの在り方を模索し、新しいロケーションを探す」とコメントしている。国内唯一の店舗をクローズしたことで、現在、日本における店舗はありません。

デビアスダイヤモンドジュエラーズジャパンは、カスタマーサービスセンターを残しているが、広報を含むその他の部署は解散している。同社は2014年に店舗戦略の見直しを行い、08年にマロニエ通り沿いにオープンした銀座本店に国内でのブランド・プレゼンスを集約することを発表し、当時、全国に8つあった百貨店内の店舗を同年全店舗閉鎖しました。

デビアスダイヤモンドジュエラーズは、世界最大のダイヤモンドの採掘、流通、加工、卸売会社であるデビアスグループ(DEBEERSGROUP)の子会社。01年にLVMHモエヘネシー・ルイヴィトン(LVMHMOETHENNESSYLOUISVUITTON)とデビアスグループの合弁会社として設立されたが、3月にデビアスグループがLVMHの保有していた50%の株式を買い戻し、完全子会社化しました。

まとめ

デビアス社がダイヤモンドの価値を保持し、希少性を高めてきたからこそ、ダイヤモンドは変わらない愛の証と称されています。一元管理がされなかったなら、今のようにダイヤモンドの美しさや神秘性へと広く目が向けられることはなかったでしょう。

現在のデビアス社は市場の独占体制を緩めていますが、ダイヤモンドジュエリー業界で大きな影響力を持っています。産出から鑑定・カッティングと厳しい基準をクリアしてきたデビアスブランドのダイヤモンドは世代をこえて羨望の的であることは変わりません。100年以上にわたり世界中の人々を虜にしてきたデビアスのダイヤモンドを、一度手に取って格別な美しさを堪能してみてはいかがでしょうか。

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