グッチの創業者「グッチオ・グッチ」とは?
世界的に有名なイタリア最高峰の職人技を象徴する「グッチ(Gucci)」。このブランド名は、創業者であるグッチオ・グッチから名づけられました。それではグッチの誕生についてお話ししましょう。
「グッチオ・グッチ」の誕生とブランド創業
・1881年
イタリア、フィレンツェで「グッチオ・グッチ(Guccio Gucci)」は産声を上げました。
・1897年
17歳のグッチオは、家を継かずにロンドンへ渡ります。そして最高級ホテル「サヴォイ・ホテル」で皿洗いとして働き始め、その後ポーターに昇格しています。
グッチオは王族や貴族など上流階級の接客を通じて、立ち居振る舞いやファッションセンスを磨きます。
・第一次世界大戦後
高級革製品店「フランツィ(FRANZI)」で働き、皮革製品の製造技術やビジネスについて学びます。
・1921年
自らの名を冠したブランド「グッチ」をフィレンツェに創設。イギリスから輸入したラゲージの販売と修理を行っていました。
・1930年代
ブランド成功の基盤となる、高品質な革を使用したバッグのデザインを始めます。
「グッチオ・グッチ」の名言
「Quality is remembered long after price is forgotten.(価格は忘れるが、品質は生涯残る)」
これは、有名なグッチオの名言です。この名言から彼が持つ「製品への熱い想いと職人への愛」を感じることができます。
「原価は何も意味を持たない。むしろ商品の値段が高ければ高いほど、それを所有することの価値も高くなるのだ」という高級ブランドの価値観を、グッチオは若くして手に入れました。
ブランドコンセプトである「最上の伝統を最上の品質で、しかも過去のよいものを現代に反映させる商品作り」からも、ラグジュアリーと革新を融合させた、新しいスタイルを常に提案し続けていることが分かります。
「グッチオ・グッチ」の有名な逸話
グッチオ氏はグッチブランドの基礎を、一代で築いた伝説的な人物です。彼には多くの逸話があり、彼の卓越したビジネスマインドを象徴しています。今回はその中からいくつか厳選してご紹介します。
グッチ家の家訓
グッチオは子供たちに対して、次のように語ったと伝えられています。
「グッチ家に生まれた者には、ミルクの匂いよりも、革の匂いを嗅がせること。それがその子の将来を決定付ける香りとなるのだから」
グッチ家では革製品が中心的な製品であり、その品質と製造技術に誇りを持っています。そのためまずは、鼻先からラグジュアリーを感じさせたのです。
息子のアルドもこの家訓を、グッチオの孫に当たるジョルジョ、パオロ、ロベルトたちに引き継いでいます。孫のロベルトは父アルドについてこう語っています。
「僕ら息子たちは、家(ミルクの匂い)というよりも、会社(革の匂い)で育てられた。会社が家族そのものだった。一番良い大学は会社である。大学へ行くのは時間のムダだといつも言っていた」
この逸話は、グッチ家の家族経営の精神と、革製品への深い愛着と尊敬を示すものとして広く知られています。
エリザベス女王への発言
イタリア訪問中のエリザベス2世がグッチを訪問した際、女王の侍従が「何か陛下にプレゼントを」とグッチオに進言しました。
グッチオはバッグを女王に進呈しましたが、女王一行が去った後、彼はこう言い放ちます。
「金も払わん乞食はもう来るな」
まだ報道陣がいるにもかかわらず、そう発言したというのです。これは非常に大胆で、物議を醸すものでした。
エリザベス女王に対する発言という形で語られるこの逸話は、グッチオの強烈なキャラクターと、彼がいかにしてブランドの高いスタンダードを守り抜いたかを象徴しています。
職人や家族への愛
グッチオ・グッチは職人たちから深い信頼を得ており、彼自身も職人を非常に愛していました。
その証拠として、グッチが現在のような大企業になる前の1970年代、工房で働いていた約130人の職人が、工房を離れることはほとんどありませんでした。
豪華で芸術的な職場環境
その理由の一つは、職場環境が非常に豪華で、美術館のような開放的で芸術的な空間だったからです。
また、一度グッチに奉職すると、景気の変動にかかわらず終身雇用が保障されていたため、職人たちは安心して働くことができました。
職人への特別な配慮
かつてグッチには、職人が「家族や恋人に材料費のみでバッグを作っても良い日」が設けられていました。
この慣習は現在では廃止されていますが、グッチオが職人たちへの深い愛情と心遣いを示すものでした。高価なグッチのバッグが、職人たちの家族へ手渡るようにしたその配慮は、彼の思いやりの表れでした。
お金を払わない高位の人物にバッグを贈るよりも、「日々一生懸命働く職人たちやその家族に贈りたい」というグッチオの想いが込められていたのです。
職人の創造力を尊重
職人たちはデザインのアイデアを提案することが許されていました。もちろん、優れたアイデアは採用される場合がありました。これにより職人たちのモチベーションは向上しています。
たとえば、竹の持ち手が特徴的なバンブーバッグは、グッチの職人が提案したアイデアから生まれた、代表的なデザインのひとつです。
このように、グッチオ・グッチは職人たちを深く愛し、彼らを尊重していました。グッチオと職人たちとの強固な絆が、グッチをフランス最高峰のブランドとして、今日のような成功に導いたのです。
第二次世界大戦で生まれた偉業や名作
グッチはその洗練されたセンスと革職人の技が高く評価され、着実に市場を拡大していきます。しかし、世界大戦の影響下では苦難の時期も経験しました。
そんな環境の中で生まれた、グッチの偉業と名作をご紹介しましょう。
第二次世界大戦中での苦境を乗り越える
グッチの経営は順調なスタートを切りましたが、時代は第一次世界大戦終結後の混乱期でした。世界はまだ不安定で、再び戦争が勃発する可能性が高い状況だったのです。
そして始まった第二次世界大戦中に誕生したのが、グッチの代名詞であるキャンバス製品です。
戦争の影響を受けたグッチは、一時的な低迷を経験しています。なぜならイタリアでは戦時統制が敷かれ、レザーの供給が途絶えたからです。
これはブランドにとって大きな危機でした。しかし、グッチは創意工夫を凝らします。グッチのセールスポイントはレザーでしたが、他の素材で代用することを決定します。
こうしてグッチは、キャンバス地にコーディングを施したアイテムの販売を開始しました。意外なことに、この代用品は大成功を収めます。
当時珍しかったキャンバス製品は高級感があり、斬新なカラーリングで人々を魅了しました。これは戦時中のピンチをチャンスに変えたグッチの偉業となり、その名は歴史に残ることとなります。
危機の中で生まれたこのキャンバス製品は、グッチの定番アイテムとして今日でも愛され続けています。
戦後に名作「バンブーバッグ」誕生
戦後間もない1940年代末、あの名作「バンブー(Bamboo)」が誕生します。現在、グッチを代表するバンブーコレクションは、その革新的なデザインで人々の注目を集めました。
その第一号はシンプルなハンドバッグで、持ち手に竹が使用されていました。竹は当時のイタリアでは一般的に手に入らず、日本から輸入されていたそうです。
こうして、革不足から考案されたバンブーバッグは、ヨーロッパを中心に大ヒットを記録しました。グッチの名前が世界に知れ渡るきっかけとなったのです。
竹素材であるバンブーは、今やファッション用語としても定着しています。そしてグッチだけでなく、多くのブランドからバンブーハンドルのバッグが発売されています。
グッチの死後に起きた「グッチ一族のお家騒動」
歴史を振り返れば、権力や資産を巡るトラブルがあるものです。巨万の富を築いたグッチも例外ではありませんでした。ここからは、そんなグッチのブランドイメージに影響を与えたスキャンダルに触れていきます。
1953年に「グッチオ・グッチ」が亡くなる
創業者グッチオは1953年、72歳で亡くなります。
ブランドであるアイコン「GG」ロゴやダイヤモンドパターンなど、現在でも愛され続けている人気デザインの誕生を見届け、その人生に幕を下ろしました。
そして、死去のわずか15日前には、二代目アルドがニューヨークに店舗を開き、グッチは世界的な高級ブランドとして認知されます。
1963年にパリ、1965年にはビバリーヒルズに、グッチは世界中の主要都市へ積極的に進出し、成功を収めました。
この時期に、グレース・ケリーやケネディ夫人などの有名人から愛用され、シックなハリウッドスタイルの象徴となります。
グッチオは「Made in Italy」の旗を、アメリカに初めて立てた人でもありました。彼の死後、グッチはますます活躍の場を広げ、成功を築いていきます。
息子たちがグッチの黄金期を築く
グッチオの息子たちは、20世紀中頃にグッチを世界的な高級ブランドへと押し上げます。グッチオには子供が六人いましたが、三男のアルドと五男のロドルフォが後継者として選ばれています。
デザインの天才と呼ばれたアルドは、保守的な父との対立を乗り越え海外展開を果たしました。一方、若い頃に俳優を目指した経験を持つロドルフォは、マーケティングの天才としてブランドに貢献し、株式の50パーセントを手にしています。
兄弟間には確執がありましたが、反目しあいながらもバランスを保ち、ブランドを発展させました。
グッチ一族のお家騒動が始まる
後継者の一人であったロドルフォ亡き後、彼の一人息子マウリツィオが株を半分相続します。そしてマウリツィオと結婚した妻パトリツィアが、後にグッチの歯車を狂わせることになります。
一族のトラブルメーカー「パオロ・グッチ」
アルドには三人の息子、ジョルジョ、パオロ、ロベルトがいました。
ある時、デザインの才能に恵まれたパオロは、独断で「パオロ・グッチ」を立ち上げます。これが父アルドの怒りに触れ、パオロはグッチから追放されてしまうのです。
この親子喧嘩に目を付けたのが、グッチの社長夫人の座を狙っていたマウリツィオの妻「悪女パトリツィア」だったのです。
一族に破滅をもたらした元凶「パトリツィア・グッチ」
パトリツィアはパオロと共謀して計略を巡らせます。夫マウリツィオとパオロの株を合わせることでグッチの株を半分以上所有し、アルドを社長のポジションから退けました。
こうして、マウリツィオが新たな社長に就任しましたが、黙って見過ごすアルドではありません。株の相続時の署名が偽造されたとして訴訟を起こしたのです。
終わらない骨肉の争い
叔父アルドとの争いで、マウリツィオは社長の座を離れることになりました。しかしその後、パオロが父アルドを告訴する事態となります。
このグッチ一族の権力闘争は、スキャンダルとなり世間の注目を集めました。
グッチ家のグッチ経営権がなくなる
アルドは告訴され、80代という老齢で収監されることになります。この事件は大きな波紋を広げ、一族の間に不和を招きました。
マウリツィオの社長復帰を、アルドの息子たちは「彼が経営するなら、他人に任せた方がましだ」と考え、彼らは保有していた株をアラブの投資会社に売却してしまいます。
結果的に株の約半分が、グッチ一族の手から離れることになりました。この一連のお家騒動は、グッチの評判を大きく損ない、マウリツィオも経営する自信を失います。
1993年、マウリツィオはついに保有していた株を売却し、グッチ一族は完全にブランドから撤退します。創設から70年、グッチ一族によるグッチの歴史は幕を閉じました。
ケリンググループの傘下に入り復活
1999年になると、PPRグループ(現在の社名はケリング)が、グッチの株を42%購入します。これによりグッチは、PPRグループの傘下に入りました。
この大規模な取引は、グッチの歴史に新たな章を開くことになります。
PPRグループの一員となった後、若手デザイナー「トム・フォード」が、大胆で斬新なスタイルを打ち出し、グッチは再び注目を集めることに成功します。
その後には、トム・フォードの下で活躍していたデザイナー「アレッサンドロ・ミケーレ」も加わり、ブランドはさらなる革新を遂げました。
「グッチ一族のお家騒動」を描いた映画
グッチ一族のお家騒は、レディー・ガガ主演の映画『House of Gucci(ハウス・オブ・グッチ)』に描かれています。2022年に公開されたこの映画は、グッチの実話を描いた作品として話題を呼ぶこととなりました。
映画で描かれた殺人事件の内容
1995年、グッチの元社長マウリツィオは、習慣であったロビーでの散歩中に襲撃されます。彼は、4発の銃弾を受けて命を落としました。
この凶悪な事件は、世界中に衝撃を与え、警察の捜査は非常に難航します。犯人の特定には時間がかかり、未解決のまま約2年の時が流れました。
その中で浮上した容疑者はなんと、マウリツィオの元妻である「パトリツィア・レッジャーニ」でした。
パトリツィアはグッチの権力欲しさに、夫をグッチの社長にまで押し上げます。念願であった社長夫人の地位を得ましたが、夫マウリツィオの不倫によりその座を失ってしまいます。
こうして、荒んだ彼女の心にはいつしか復讐が芽生え、強い殺意を抱くようになったのです。
1997年1月、ついにパトリツィアの犯行であることが判明します。彼女は夫の殺害をマフィアに依頼していたのでした。パトリツィアは逮捕され、懲役29年の刑を宣告されています。
レディー・ガガ主演の映画『ハウス・オブ・グッチ』は、悪女パトリツィアを中心に、グッチ一族の栄光から没落までを描いた作品となっています。
サスペンス映画ではよくあるシナリオですが、有名ハイブランドを創業した一族の、実話が基になっているという事実には驚きが隠せません。
現在のパトリツィア
逮捕後、パトリツィアはミラノのサンヴィットーレ刑務所に入獄しました。模範囚として刑期が26年から17年に短縮され、2016年に出所しています。
その後、彼女はマウリツィオの財産から約2,200万ドルを受け取り、現在はペットのオウムと白い犬と共にミラノで静かに暮らしています。
出所後のインタビューでは、刑務所内での生活について語っていました。労働を免除され、ペットを飼い、家族や友人と自由に面会できるなど、特別待遇を受けていたことを明かしています。
パトリツィアとマウリツィオの娘への影響
パトリツィアは釈放された後、娘であるアレグラとアレッサンドラの二人と、法廷で争うことになります。残された財産の相続人である娘たちは、父を殺した母へ年金を支払うことに抵抗を感じたのです。
パトリツィアが年金を受け取ることは、1993年にマウリツィオとの間で結ばれた契約に基づいたものでした。
娘たちはこの契約に異議を唱えましたが、最高裁判所は契約の有効性を認め、パトリツィアに年金を支払うよう命じます。
まとめ
いかがでしたでしょうか。今回はグッチの創業者と、その一族にまつわるエピソードをお話ししました。スキャンダラスな事件もありましたが、グッチが一流のハイブランドであることに変わりはありません。
グッチオの熱い想いは受け継がれ、グッチが愛され続けるブランドであることは、これからも変わることはないでしょう。