“金/ゴールド”という素材はどのような素材なのか
金は「Au」という元素記号をもっています。これは金を意味するラテン語の「aurum」に由来し「暁の」「光り輝くもの」という意味です。ちなみに、「gold」は、サンスクリット語の「ghel」に由来しています。「ghel」というのも「輝く」という意味です。金はひとつの元素であり、重金属の一種です。現代の科学によれば、地球上に存在する金は、寿命を迎えた恒星の衝突によってつくられたとされたとされています。地球が形成されたとき、その金のほとんど―約1,600兆トン―は地球の核へと沈み込み、私たち人類が近づいて採掘できるのは、地球の表面に残るわずかな金だそうです。
人類はその歴史が始まって以来、様々なものに金を利用してきました。金はどの大陸でも発見されており、有史以前の人間が採掘し、利用した最初の金属のひとつでした。金は大変柔らかく曲げたり伸ばしたり加工が容易だったこともあり、古代より装飾品に用いられてきました。約70万分の1センチという薄さまでに打ち延ばし、極細の糸にも紡ぐことができます。融点の低さも関係しています。加熱したときに固体が融解する温度のことを融点といいますが、鉄は1538℃、プラチナは1768℃とかなり熱を加えないと融解せず、加工できません。一方金の融点は1064℃と比較的低めです。このため、早い段階から人類は金を加工する技術を獲得できました。その結果、さまざまなジャンルの金製品が誕生しました。
工業素材としての【金/ゴールド】
金といえば、ネックレスなどの宝飾品としての用途を思い浮かべるかもしれませんが、工業用の素材としても大変優秀な素材です。薄く伸びやすい、導電性が高い、さびにくいなどの特性を備え、多くのエレクトロニクス製品に搭載されています。携帯電話でも、電気回路の接点や充電部のコネクターなどに微量ずつ金が使用されており、ミクロの世界でも輝きを放っています。その特性は人類の技術的発展に大きく寄与しました。
中でも重宝されているのが、ICチップの電気の接続に使われる、「ボンディングワイヤ」と呼ばれる極細の線です。高い導電性が求められる製品で、金製が約8割を占めています。その他に、私たちの人体そのものに搭載されることもあります。それが金歯です。安定性が高く腐食しにくい金は、歯の詰め物やかぶせ物にも広く使用されています。ちなみに、金歯には金が含まれていますが、銀歯は銀ではありません。
装飾品としての【金/ゴールド】
●世界の金の歴史
人類は様々な方法で金を利用してきましたが、考古学上の記録によれば、金の利用は装飾としての用途が最初です。自身を着飾るもの、建物を飾るもの、様々な金製装飾品が作られ人類の文化的発展に大きく寄与しました。では、金の装飾品が見つかったのはいつ頃、そしてどんな場所でしょうか。最古のものは、1972年に発見され、ブルガリアのヴァルナ共同墓地として知られるようになった銅器時代の墓地だと言われています。そのうちの最古の墓は紀元前4600年頃までにさかのぼります。古代の金細工品の断片は他の場所でも発見されており、アナトリア(現在のトルコ)でも古代に金工が行われていたようですが、ヴァルナで発見されたのは、人類によって金の加工がなされた最古の時代の最も精巧な作品といわれ、人類が装飾のために金を身につけたことを示す最古の証拠でもあります。
金、お墓と言えば、エジプトのツタンカーメンの黄金のマスクを思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。王族のミイラは、黄金のマスクをはじめとする副葬品-ブレスレットや胸当て、サンダル、装飾を施した武器やその鞘-で飾られていました。これらは、彼らの“永遠の地位”を約束するものであり、ツタンカーメンの墓では遺体が純金の棺に納められていたといわれています。紀元前3千年~5世紀頃のエジプトでは金は神々の皮膚、とくに太陽神ラーの皮膚と同一視されていました。古代の人々にとっては、人類が望んでも叶わない永い命と、不思議な魔力を持つと信じられているものを身につけることによって、自らの力を強めたいという思いがあったようです。紀元前7世紀から1世紀頃には、今のイタリアがあるあたりに存在した古代エトルリアでは金の細工「粒金」という0.18ミリほどの小さな粒の金による装飾を施した像がつくられています。その高度な技術は現代でも、当時の環境でどのように作られたのか謎に包まれています。
アフリカ大陸のガーナ近辺にあたる黄金海岸にあったアシャンティ王国では、18世紀~19世紀にかけて金製の宝飾品が作られていたといわれています。それらの使用は王族と祭礼をつかさどる人に限られていたといわれおり、精巧な宝飾品からは当時の高い技術が伺えます。
●日本の金の歴史
では、かつて『黄金の国ジパング』と言われた日本ではどうでしょうか。日本に現存する最も古い金製品は、福岡県志賀島にて発見され現在は国宝に指定されている、純金製の『漢委奴国王印』です。また古墳時代の物で、奈良県東大寺山古墳より出土した『中平』銘鉄剣と、埼玉県稲荷山古墳出土した『辛亥』銘鉄剣には、鉄地に線を彫りこんで金線を埋め込んだ『金象嵌』がありました。しかし奈良時代までの日本では『金』は産出されておらず、朝鮮半島の新羅や高句麗からの輸入に依存していました。
しかし、749年に奥州(今の東北地方)にて砂金が発見され、日本でも『金』の産出が行われるようになりました。平安時代後期になると、『金』の産出による財力により、奥州藤原氏が繁栄、現在の岩手県平泉に『中尊寺金色堂』が建立されました。このお堂こそが『マルコ・ポーロ』が『東方見聞録』の中で、『黄金の国ジパング』として紹介したモデルと考えられていれます。ちなみに、創建当時の金色堂に使用した金は、およそ150kgと推定されているようです。
貨幣としての【金/ゴールド】
●何故貨幣には金が使われるのか?
原始的な貨幣経済が始まるまで、売買の取引は物々交換でした。しかし、物々交換ではお互いの物の価値を量るものさしが曖昧で、損得が難しくなります。そこで登場したのが貨幣という概念でした。この貨幣は、お互いにとって均質で、不変であり、また一定量今まで大切にコレクションをしてきた金貨ある必要があります。古代では海辺で採られる希少な貝などの原始貨幣や、穀物などの自然貨幣が使用されていましたが、紀元前700年頃、リディア王国で最古の鋳造貨幣エレクトロン貨が登場しました。
そして時代が進み、戦争や交易などで通貨が国境を超えるようになると、貨幣は国や政治に依存しない価値を持つものが選択されるようになりました。そこで選ばれたのが、富の象徴であり普遍的な価値を持つ金、産出量が多く一定の価値を持つ銀、同じく産出量が多く耐久性があり一般の流通に向いた銅でした。貨幣の登場が経済を生み、金の存在が人類の経済活動の発展に大きく寄与しました。
●金貨のいろいろ
日本では金貨というとまず浮かぶのが、様々な大判小判ではないでしょうか。江戸時代に特に多く発行された小判は、現在でも古銭として高い価値を持って取引されています。では金貨は、一体いつから使われていたのでしょうか?歴史を遡っていくと、純度と重量が保証された実用的な金貨が登場したのは紀元前600年、古代ギリシャのリュディア王国アリュアッテス王の時代で、世界で最初の通貨型金貨だと言われています。中国では前漢時代(紀元前206年-8年)に馬蹄金と呼ばれる金貨が作られ、臣下への褒賞として与えられていました。
このように金貨は、基本的に流通用の日常的な貨幣ではなく、褒賞や記念として作られてきました。現在金貨は、金の地金価値以上の額面を付与された日本の5万円金貨などの「通貨型」、金地金の市場価格に若干のプレミアムが付与されて発売され、額面は地金より低く設定されているカナダのメイプルリーフなどの「地金型」、金地金の価格及び額面を超える固定価格で発売されるオリンピック記念硬貨などの「収集型」が流通しています。取引額は金の地金相場や貨幣商の市場価格によって変動するため、金貨の価値は都度変わります。
●金本位制とは?
金本位制は金を通貨価値の基準とする制度で、1816年に英国が1ポンド金貨の鋳造を始めたのが始まりと言われています。日本では1897年に明治政府が金本位制を採用したことで知られています。これは金を本格的に貨幣経済の中心通貨として流通させるため、補助貨幣として中央銀行が兌換券を発行し、同額の金の兌換を保証するシステムでした。金本位制の国の中央銀行が発行した兌換券は金の価格とイコールですので、極端な表現をすれば、世界の通貨が「金」一つになるということでもありました。
つまり、経済基盤が強く金の準備が充分な国には有利であり、これから発展する国は多くの金を流出してしまうシステムでもあったのです。実際に、金本位制度に参入した明治政府は大量の金貨を流出させ、金銀複本位制を経て日清戦争語に金本位制に復帰しました。やがて1929年からの世界大恐慌を主な要因に、主要各国は金本位制を離脱し、自国の金の保有量と関係なく通貨を発行する、管理通貨制度に移行しました。その後、1988年4月施行の通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律により、日本の本位金貨は正式に終了しました。
まとめ
はるか昔から、金は人類の歴史とともにありました。金の存在が人類の技術、文化、経済を発展させてきたのです。そして今も私たちの生活に欠かせない存在であり続けています。