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おしゃれ?カッコいい?ダサい?歴史あるグッチの遺産、オールドグッチ

1692‗オールドグッチ

世界的ブランド、グッチのプロダクトの中でもオールドグッチと呼ばれるものがあります。ネット上では「おしゃれ」や「カッコいい」、「ダサい」など様々な意見が交錯するほど注目を集めています。そんなオールドグッチとは何なのでしょうか。オールドグッチの魅力についてお話します。

グッチの歴史、ブランドの始まり

オールドグッチについて知るには、まずグッチの歴史を理解する必要があります。グッチの創業者、グッチオ・グッチ(Guccio Gucci)は1881年、イタリア・フィレンツェの皮革製造業を営む家に生まれました。1897年、ロンドンのサヴォイ・ホテルで働き始めます。

彼は、サヴォイ・ホテルに出入りするエリートや富裕層の振る舞いや装い、持ち物の美しさに魅了されました。この経験はグッチオにとって大きなインスピレーションとなり、1902年に故郷に戻り、皮革鞄メーカーのフランツィ社で働くことになります。こうしてバッグづくりの腕を磨いたグッチオは1921年、自身の名を冠したブランドを設立し、フィレンツェのヴィーニャ・ヌオーヴァ通りにグッチ1号店をオープンさせました。

戦禍と戦果

創業当初、グッチはイタリアの富裕層にあらゆるレザー製品を販売していました。かばんや革小物だけでなく、乗馬用の鞍も造っていました。乗馬器具はブランドのルーツとして大きな要素であり、グッチのデザインの多くは、同社が製造した初期の乗馬用品にインスパイアされています。ブランドは着実に成長しその後、グッチはスカーフなどのシルク製品、革靴、などラインナップを拡大していきます。

1935年、第一次世界大戦後に結成された国際連合(UN)の前身である国際連盟(LN)は、イタリア王国に対し、エチオピア帝国との戦争を放棄させるための制裁を課しました。国際連盟によるイタリアへの禁輸措置は、同国のビジネスに打撃を与え、グッチもその影響を被ります。しかしグッチオは輸入できなくなった素材を、ナポリの麻織物など地元の素材に置き換え、新たなクリエーションを生み出しました。こうして生まれたデザインの一つが、GGのロゴとダイヤ柄を鎖状につないで配したモチーフです。今でもあらゆるプロダクトで使用されていますね。

第二次世界大戦によって、イタリアはもちろん、世界が混乱に陥りました。この苦難に、グッチオは革新的なクリエーションで立ち向かいます、グッチは入手不可能な素材の代替品を用いてユニークな製品を生み出しました。

このように新しい素材を数多く見出したグッチは、日本の竹バッグの持ち手としてこの上ない代用品となることを発見しました。こうしてグッチは、特許を取得したバンブーハンドルをバッグの持ち手に使用した「バンブーバッグ」を発表します。終戦から2年目の1947年のことです。

また、グッチがブランドのアイコン的素材であるピッグスキンをバッグに使い始めたのもこの頃のことです。これはグッチオの息子であるアルド・グッチによって導入された革新的な素材でした。

息子たちによる事業拡大

1951年には、グッチのイメージカラーであるグリーンとレッドのグッチストライプを採用しました。2年後、グッチは米国に最初の店舗をニューヨークのサヴォイプラザホテルにオープンしました。サヴォイホテルはグッチオがポーターとして働いていた場所でもあり、ブランドにとって思い入れがありました。

しかし、この店のオープンからわずか15日後、グッチオはミラノで72歳の生涯を閉じます。事業は彼の息子たちに引き継がれます。アメリカでの事業はアルドが、フィレンツェでの事業はヴァスコが、ミラノでの事業はロドルフォがそれぞれ担当しました。

1953年、グッチはローファーを発表します。ローファーにあしらわれた特徴的なメタルパーツ「ホースビット」は、乗馬の際に馬の口周りにつなぐ鎖状のパーツから着想を得ています。ローファーはホースビットをあしらった初期の製品であり、ローファーは今でもグッチを代表するアイテムであり、メトロポリタン美術館にも収蔵されているほど、その芸術性は高く評価されています。

1950年代は、グッチの黄金時代となりました。グッチのアメリカ店は、銀幕のスターをグッチに引き寄せました。

1960年代、グッチの人気はますます高まり、多くの富裕層がグッチの顧客となりました。中でもジャクリーン・ケネディは、1961年にグッチのバッグを愛用したことで有名です。彼女によりこのトートバッグは、瞬く間にグッチの”イットバッグ”となったのです。後にこのバッグは彼女に因んで「ジャッキー」の名を拝命することとなります。

モナコ公妃グレース・ケリーも、グッチの常連客でした。彼女がグッチショップを訪れたことをきっかけに、ロドルフォは1966年に王女への贈り物として、彼女に敬意を表して特別なフローラル スカーフを依頼しました。

アーティスト、ヴィットリオ・アコルネロがデザインしたこのスカーフには、43種類の花、昆虫、植物が37色でプリントされていました。このスカーフは「フローラ」として知られるようになり、グッチの歴史の中でも名作の一つです。

1960年代以降、グッチの製品を身につけた著名な女性には、オードリー・ヘップバーン、ナンシー・レーガン、ダイアナ妃、ギリシャのフレデリカ女王、ヨルダンのラニア女王、カーラ・ブルーニ=サルコジ、ミシェル・オバマなどがいます。

こうしてグッチの躍進はとどまることを知らず、グッチショップが世界中にオープンしながら、グッチは製品ラインナップも拡大し続けました。そして、1960年代半ばには、ウォッチ、ジュエリー、アイウェアなどのアイテムが加わりました。

1970年代と1980年代、アルド・グッチは、アジアに向けて舵を切りました。1972年に東京、1974年に香港にそれぞれ店舗をオープンし、ニューヨークにはグッチのアパレルラインのための店舗を新たに開設しました。1975年には、ラグジュアリーブランドとして初の香水「グッチNo.1」を発売し、収益性の高いビューティ市場への参入を果たしました。

1981年、イタリア・フィレンツェのピッティ宮殿にあるサラ・ビアンカで、グッチ初のプレタポルテのファッションショーが開催されました。フローラ柄にインスパイアされたこのショーは大成功を収め、ラグジュアリーブランドとしての地位を確固たるものにしました。

一族の仁義なき戦い

しかし、製品の名声が高まる一方で、グッチはグッチ・ファミリーの内部抗争に端を発した混乱に見舞われました。

それは1974年のヴァスコ・グッチの死に端を発し、その後アルドとロドルフォが事業を均等に分割しました。しかし、アルドの息子たちは、叔父であるロドルフォがビジネスの成長に貢献できていないと感じていました。そこでアルドは、グッチの子会社として香水会社を設立し、その株式の80パーセントを自分と息子たちのものとしました。しかし、一族のトラブルはここからさらに激化しました。

アルドの息子の一人で、グッチの副社長を務めていたパオロが反旗を翻し、自らグッチのセカンドラインを立ち上げようとしたのです。激昂したアルドは息子に対して裁判を起こし、関係各所にパオロと付き合わないようにと脅しました。

1980年にグッチメゾンから追い出されたパオロは、父親の脱税について告発し、その結果アルドは1986年に700万ドル以上の脱税を認め、一年間刑務所に収監されることになりました。

そんな中、1983年にロドルフォが亡くなり、息子のマウリツィオがロドルフォの株を受け継ぎました。妻パトリツィアにそそのかされたマウリツィオはその後、グッチのビジネス全体を掌握する試みを始めました。

マウリツィオは1972年、父親の意向に反してミラノの富豪パトリツィア・レッジャーニと結婚しました。マウリツィオは彼女に「狂おしいほど惚れ込んだ」といいます。夫妻は豪華なパーティーを開き、2人の娘と豪華な休暇を過ごすなど、贅沢三昧な日々を送りました。

しかし、晩年マウリツィオはパトリツィアから次第に距離を置くようになり、2人は1990年に離婚しました。ビジネスにおいてもマウリツィオは行き詰まります。1988年には、アルドとその息子たちの持ち株が、バーレーンのインベストコープ社に買収されました。

その後、マウリツィオは1989年にインベストコープの許可を得て、会長としてグッチグループの経営に携わることになりましたが、マウリツィオが経営権を得た頃には、ビジネスは肥大化し、グッチブランドを統率することができず、1993年、インベストコープがグッチ社を完全に掌握し、グッチ家の事業への関与は終わりを告げました。

1995年3月27日、マウリツィオはミラノのオフィスの階段で射殺されました。46歳でした。それから2年間、誰がマウリツィオを撃ったのか、誰も手がかりをつかめませんでした。しかし2年が経ち、警察はパトリツィアと彼女の友人ピナ・アウリエンマ、そして殺し屋を含む3人を逮捕しました。殺される前、マウリツィオはパオロ・フランキという女性と結婚する予定だった。パトリツィアはパオロ・フランキがマウリツィオの妻になった途端、自分の地位、金、権力を彼女に奪われることに耐えられなかったのです。

奇跡の復活

1990年代、グッチというブランドはどん底からの奇跡の復活を果たします。今や伝説となったトム・フォードがグッチのクリエイティブ・ディレクターに就任したのは1994年のことです。翌年、彼はグッチ初のコレクションを発表し、大成功を収めました。数ヶ月のうちに、グッチはハイエンドな高級ファッションとアクセサリー市場のトップに返り咲いたのです。

1995年、グッチ・アメリカの責任者であったドメニコ・デ・ソーレは、グループのCEOに就任しました。ドメニコ・デ・ソーレの巧みな経営手腕とトム・フォードのカリスマ性があいまって、現在に至るブランドの名声は取り戻されたのです。

オールドグッチの種類

オールドグッチとは、このようなグッチの長い歴史において、ライセンス化が横行しブランドプロダクトの質が低下した1980年代以前のものを指して言うことが多いようです。それらは、グッチオが生み出し、アルドが洗練した本家の遺産を脈々と受け継ぐクリエーションたちなのです。

 

Gucci Parfums
イタリアで作られたセカンドブランドは、造りが非常に丁寧で良質の皮を使用しているため、マニアが多くいます。通常のラインと同型の物から、別シリーズまで個性的で斬新なモデルが造られました。

 

Gucci Plus
グッチ家が分裂した時に別会社で生産して多数のラインが乱立していた60~70年代の1つのブランドでした。現在、Plusは存在しません。その頃、グッチでは多種類のセカンドラインを出していましたが、Gucci Parfums(グッチパフューム)は残りましたが、80年代には、ほとんどが廃盤になりました。その為、数が少ないのでマニアのコレクションとして近年、人気が高まっています。

 

「バンブー」と「ジャッキー」

オールドグッチにはシェリーライン以外にも多くの種類があり、その中でも「バンブー」と、「ジャッキー」は今なお人気があります。「バンブー」とは名前の通り、竹をバッグのハンドルやボタン部分に使用しているラインで、第二次世界大戦中に多くの皮を使うことが出来なかったことから生まれました。

「ジャッキー」はジャクリーン・ケネディが愛用したバッグで、名前は彼女へのオマージュとなっています。ジャッキーはバッグの留め金の部分が特徴で、カンヌキタイプになっているラインです。他のバッグにはない斬新なデザインで人気があります。どちらのバッグも一時期は廃盤となっていたのですが、数年前に復刻されたことでシェリーラインと同様に相場が高くなりました。

オールドグッチが人気な理由

現行品の場合には量産している商品が多いため、多くの方がグッチを持っていますが、オールドグッチの場合は1985年以降作られていないので流通量は毎年減っております。

オールドグッチといえばシェリーラインです。シェリーラインとは緑色と赤色、または青色と緑色のラインのことを指します。このデザインは現行のグッチでは販売しているものがなく、オールドグッチや復刻品にしか見ることのできないデザインとなっております。カジュアル感がありながら高級感も兼ね備えているため、人気があります。

グッチ 復刻の影響で価格高騰?

シェリーラインとは1950年代に発売された緑と赤の配色が特徴な、一目でグッチの商品だとわかる人気のラインです。シェリーラインはオールドグッチの中でも非常に人気のあるラインで、現在は廃盤となっており、それに変わる「オフィディア」が2018年に発売されました。

オフィディアはシェリーラインとGGパターンをミックスした、今のグッチ人気の火付け役にもなったラインです。発売から数年たった今なお人気が高いことから、中古品になってもあまり値崩れすることがありません。

オールドグッチは使用感が強いものでも売れる可能性が高い

オールドグッチは年々数が減少していることから、状態が良いものはもちろん、使用感があるものでも買取可能な場合があります。「買取大吉」では、ブランド品の無料査定を行っております。お近くの「買取大吉」まで是非、ご来店下さい。

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