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GUCCIとグッチ一族の歴史

1897_パオロ・グッチ 岩田GM班 佐藤

グッチといえば、誰もが知っているイタリアのラグジュアリーブランドです。今でもその人気は高いですが、グッチ一族には血生臭い権力闘争のエピソードがあります。映画にもなるほどのこのドラマを紹介します。

ブランドGUCCIの誕生

1921年グッチオ・グッチがフィレンツェに最初のブティックをオープンしたことからブランド「グッチ」のすべてが始まりました。グッチオは皮革商人の息子で、皮革製品、馬具、鞄を専門に扱っていました。

しかし、1940年のレザー禁輸をきっかけに、リネンや竹などの素材に目を向け、斬新かつ洗練されたクリエーションで着実にブランドとして成長していきます。そして、息子たちを事業に参加させ、ヨーロッパ中に大砲の音が響く中でも、後退することはありませんでした。しかし、1953年に71歳でミラノで亡くなったこの家長の遺産によって、一族はやがて引き裂かれることになるのです…。

栄光の軌跡

父亡きあと、グッチオの長男であるアルド・グッチは、生産と店舗を管理する弟のロドルフォの支援を受けながら、グッチグループの経営を引き継ぎ、1953年にニューヨーク、次いでロンドン、パリ、ロサンゼルス、香港に進出して国際的なブランドとして成長していきます。

グッチは、イタリアの職人技と上質な素材を結び付けた質の高いクリエーションで、富裕層やセレブリティから引っ張りだこなブランドとなりました。例えば女優イングリッド・バーグマンがロッセリーニ監督の映画で着用したり、ジョン・F・ケネディ大統領はグッチを「イタリアファッションの大使」と評しました。

1974年、この2人の兄弟は亡くなった兄ヴァスコの株を買い取り、それぞれ50%の株を保有することになりました。この取引が、ファミリー内で最初の対立を生むことになります。

実際、パオロを含むアルドの息子たちは、この金銭合意をすぐに否定し、「必要最低限のことしかしていない」「会社の成長に十分な貢献をしていない」と叔父ロドルフォを非難しました。そして、アルドは利益を上げるために、香水の子会社を設立し、自分と3人の息子のために株式の80%を手に入れました。

マウリツィオとパトリツィアの結婚。没落へのカウントダウン

1970年11月、あるガラコンサートでロドルフォの息子であるマウリツィオはパトリツィア・レッジャーニに出会います。二人がともに22歳のときです。その時パトリツィアはミラノの年配の実業家フェルディナンド・レジャーニに目をつけていました。

しかし、マウリツィオは、生意気で無謀な彼の対極のような彼女に惹かれます。1973年、マウリツィオは、この野心家のパトリツィアと結婚しましたが、家族の大半の怒りを買いました。実の父親も含めて、「彼女は金だけが目当てなんだ」と考えていました。ロドルフォはミラノ大司教に直接介入して、結婚を阻止しようとさえしましたが、彼らを阻むことはできませんでした。

マウリツィオ・グッチ、呪われた後継者

マウリツィオは、パトリツィアと、アルドの影響力に対抗しようとした父ロドルフォの後押しを受け、会社での影響力をますます強めていきました。

しかし、1983年にロドルフォが亡くなると、家族戦争は新たな局面を迎えます。父親の50%の株と合わせて、ほぼ大株主となりました。そして、自身のブランドをグッチから独立させようとして父アルドに追放されたパオロ・グッチの父親に対する恨みを利用し、グッチの支配権を握ろうとしました。

1984年には、アルドが脱税を組織的に行っていたことを証明する危険な情報をリークし、スキャンダルを引き起こし、その2年後、81歳の時に重い罰金と長い懲役を言い渡され、1990年にアルドが亡くなります。

マウリツィオにも苦難がつづきます。1985年、彼はパトリツィアに「フィレンツェに出張する」と告げたきり、帰りませんでした。パトリツィアと離別する計画を綿密に準備していたのです。パトリツィアは夫がもう自分からの連絡を望んでいないことを知り、唖然とします。

しかも結婚式にも出席したパトリツィアの幼なじみ、パオラ・フランキと密かに交際を始めたことが報道されます。恥をかかされたパトリツィアは、元夫が愛人と再婚するのを阻止するために、あらゆる手を尽くしました。

二人の離別の手続きは、1994年までかかりました。さらにアルドの罠にかかったマウリツィオは「(マウリツィオが、)秘書に父親のサインを偽造させて、グッチの株を相続した」と告発されます。

投獄は免れても、ブランドイメージに傷を負ったグッチ帝国は失速しはじめます。そして、マウリツィオはバーレーンの投資ファンド「インベストコープ社」に会社を売却します。その過程でパオロはグッチを追い出され、破滅してしまいます。

マウリツィオの暗殺

そして、誰もが恐れていた悲劇が訪れます。1995年3月25日、グッチ本社に行くために、ミラノのホテルを出たマウリツィオは、頭を何者かに撃たれます。イタリアの新聞は、マフィアとの密通事件を噂します。

しかし警察は、拒絶された元妻に目を付けます。1997年1月31日、自宅に駆けつけたマスコミのフラッシュの中、ついに "レディ・グッチ "は逮捕されます。パトリツィアの日記には、殺害された日に「パラダイス」とだけ書かれていたことが判明しています。彼女は殺人罪で有罪判決を受け、29年の懲役を言い渡されます。

刑務所の中で、「黒い未亡人」と呼ばれたパトリツィアは、その評判に違わぬ活躍をしました。例えば、他の囚人にお金を払って家事をさせたり、2011年に仕事を見つけることを条件に釈放されたとき、彼女はそれすらも拒否し、「私は人生で一度も働いたことがない、今から始めるつもりもない」と言ったのです。

しかし、持っているお金はどんどん減っていき、やがて彼女は自分の野望を考え直さざるを得なくなります。ジュエリーブランド「Bozart」のコンサルタントだった彼女は、2017年にようやく釈放され、慌てて弁護士に相談し、服役中に負っていた養育費を娘たちに支払ってもらいました。

新風吹き込む

この一族の醜い権力闘争が落ち着くと、トムフォードが1994年、クリエイティブディレクターに就任しました。黄金時代である60~80年代のアクセコシリーズをイメージして、ミニマムGGやバンブーシリーズ、フローラなどの要素を再構築し、世界中にグッチブームを再燃させます。

1994年に敏腕ドメニコデソーレがグッチアメリカの最高経営責任者に、さらに1995年にはグッチグループの最高経営責任者に任命されました。彼はすぐにライセンス、フランチャイズ、そしてセカンドラインを強化し始めます。トムフォードは1994年にクリエイティブディレクションを担当してから1996年までにグッチのあらゆる面を監督しました。

グッチ再興

フォードとデソーレは、以前のグッチの評判を取り戻すのに大層苦労したようですが「攻撃的で野性味のある”セクシー”さ」を打ち出した彼らの活躍で、グッチはトップブランドに返り咲き、奇跡の再生を果たします。

パトリツィア逮捕の1997年には純利益は、1億5000万ドル(前年比85%増)にもなっていたそうです。1997年には世界中にグッチの店舗が76店もあり、ライセンス契約もたくさんありました。フォードとデソーレは2001年までに重要なビジネス上の決定に対する責任を共有し、フォードは同時にイヴサンローランとグッチでデザインを指揮しました。

現在もグッチは、アレッサンドロ・ミケーレのシックでファンタジックな世界でファッションシーンを席巻し、世界的ブランドを束ねるケリンググループの一翼を担うブランドとなっています。

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